file65 あいつは獣
キクマとバートンは事務員の様子と声音がわずかに変化したことを感じ取った。この事務員はアリシアのことを知っている。
「アリシアを捜しているんだ。どこに行ったか知らないか?」
キクマは上半身を受付テーブルの上に乗り出して、事務員に迫った。
「アリシアなんて人知りません……」
「嘘はよくねえよ。あんたのその態度は嘘をついた者特有の焦りと、動揺が読み取れるんだよ」
「本当に知らないのです……」
事務員は目を合わせようとしなかった。
後ろで書類をかたずけたり、書き物をしたりと動き回っている事務員にも視線を向けるが、皆一様に避けているように見受けられる。
これは何かある。
キクマとバートンはそう思わずにはいられなかった。役所がらみでアリシアのことを隠しているのか? なぜ隠す必要があるのか?
「嘘は泥棒の始まりだ。正直に教えてくれよ。アリシアの子供が母親を捜しているんだよ。良心は痛まねえのか?
生き別れた子供が、必死に母親を捜してるんだぞ。もし今も生きていれば、もう七十を過ぎた高齢だ。親子を逢わせてやろうとは想わないのか?」
キクマの声は穏やかだったが、内心では怒りの炎が燃えていることだろう。
「本当にアリシアなんて人知りません」
キクマは鼻を鳴らして、受付テーブルから体を起こした。
「そうか。時間を取らせて悪かった」
事務員を鋭く睨んで、「おい行くぞ」とバートンに言った。
「え、行くんですか……」
キクマが外に出てしまったので、バートンも追わないわけにはいかない。
キクマに追いついてすぐ、バートンは訊ねた。
「どうして追求しないんですか? 何か隠しているのバレバレじゃないですか」
「あのまま粘ったら厄介なことになるだろうが。何でも強制はいけねえんだよ」
キクマはそう言うが、バートンは納得できなかった。
まだこういうところが青い、と言われるのだろうが。
「どうするんですか? 役所が教えてくれないんじゃ、捜しようがありませんよ」
町を歩きながら、バートンは愚痴のように問うた。
「役所が何かを隠しているってことは、アリシアの関係で何かもんちゃくがあったってことだ。町人に話を訊けば、何か手がかりがわかるかもしれねえ」
「聞き込みですか?」
キクマは振り返り、いつもの一言をつぶやく。
「刑事は足で稼いでなんぼだ」
「またそれですか。その考え古いですよ」
「捜査に古いもへったくれもねえ。部下は黙って上司に従え」
「はいはい。わりましたよ」
町は小さかった。小さなアパートメントが立ち並び、出店市が開かれているほかには観光名所らしきところはなかった。
「どこで聞き込むんです?」
「酒場だ。とりあえず、酒場を探せ」
「また酒場ですか。僕酒場苦手なんですよ。どうして警部はいつも大抵酒場からなんですか?」
「酒場には必然的に情報があつまるんだ」
「警部の経験で得た知識ですか?」
「いや、俺の上司だった男が言っていたことだ」
「警部の上司ですか。警部にも上司がいたんですね。意外です。どんな上司だったんですか? 名前は?」
「ウイック。ウイック・ドロントってどうしようもねえ奴だった」
「ウイック・ドロントですか……」
バートンはその名前を聞いたことがあった。
サエモンが話していた、獣の適合者の名前が、確かその名前だったように思う。
獣に適合して二つの大戦の最前線で戦ったという男。
獣の力を唯一コントロールできていた、男。
「どうした?」
キクマはバートンの様子がおかしいことに気付き立ち止まった。
「あ、いえ。何でもありません。そのウイックって上司はどんな方だったんです?」
「どうしようもねえ荒くれ者だった。刑事失格だ」
「そんなに酷かったんですか。例えば?」
「あいつは獣だったよ」
キクマはそれだけ言って、押し黙ってしまった。バートンがウイックとはどのような人だったのかを訪ねようと、それ以上話そうとしない。
キクマは余り自分のことを話したがらない。
だからこの前、キクマに妹がいたという話もはじめて聞いたのだ。
詳しくは聞いていないので、どのような女性だったのかは想像するしかないが、キクマには似てないで欲しいと願うバートン。
キクマとキプスの話で推測するに二十年前、キクマが追っていた事件。
ジャック・ザ・リッパー再来事件の犯人はキプスだった。
キプスはキクマの妹、キクナなど知らないと言っていたが、キクマの態度から推測する限り、キプスは関与している。
この前キクマはキプスに会いに行ったとき、再確認したのだろう。
ならどうして、キクマは自分の妹を殺した宿敵の頼みを聞いているのだろう? どうも腑に落ちない。何か弱みでも握られているのか? そもそもキクマに弱みなどあるのだろうか?
「あれ、酒場じゃねえか」
「どこですか」
バートンはキクマが目線を送る先を目で追った。
アパートメント地帯を抜けて間もなく、道路沿いに小さな酒場らしき看板が出ているのを見た。酒樽の軒看板が出てあるのですぐに酒場だとわかる仕様になっている。
まだ開店前の立札が出ていたが、キクマはお構いなく店のとびらに手をかけ、引いた。鈴のチャリンチャリンという甲高い音と共に、とびらは開いた。
電気は落ち、しんみりとした朝の空気に似た匂いに包まれた酒場だった。
中を覗き込んで、「誰かいないのか?」とキクマは店の中に呼び掛けた。
しばらく待つが返事がないので、もう一度今さっきより大きな声で「誰かいないのかあ!」と怒鳴るように言うと、「まだ、開店前だよ」という声が店の奥から返ってきた。
カウンターの奥の部屋から足音が近づいて来る。
のれんをくぐって、現れた人物は女だった。歳のころは五十代半ばだろうか>? 落ち着いた雰囲気を衣のように身にまとった、綺麗な女性だった。
「何だい? まだ開店前なんだよ。夕方に出直して来てくれないか」
キクマを目の当たりにしても恐れることなくキッパリと言い切れる精神力を持っている女性だった。
「客じゃないんだ。聞きたい話があって、ここらへんで訊き込んでいる」
「聞きたい話? あんたら誰だい?」
キクマは懐から手帳を取り出して、かざしてみせた。
「本物かい?」
「本物だ」
考えるふうに方眉を落として、しばらく押し黙っていたが、「わかったよ。話を聞いてやろうじゃないか」と言って二人を中に招き入れた。
キクマとバートンは促されるまま、カウンタ席に座って女性と向かい合う。
「で、聞きたい話ってのは?」
キクマはアリシアのことを女性に話すと、「アリシアさんかい……」という明らかに知人の話をするようなしんみりとした声で女性は答えたのだった――。