file64 この笑顔を見るためなら、僕は道化にだってなろう
多くを飲んだわけではないが、二日酔いになってしまったようだ。
頭がガンガンして、寝覚めが悪かった。
昨日は何時までチャップと語らっていただろう。
セレナと子供たちはすでに起きていた。冷たくなったシーツに触れて、起きてから時間が経っているであろうことを推測する。バートンは頭を抑えたまま、リビングに下りた。
「おはよう」
セレナは食器の後片付けをしていた。
「もうチャップは帰っちゃったわよ。『ありがとう、久しぶりに話せて楽しかった、って伝えてくれ』だって」
「ああ」
ガンガンする頭を抑えたまま、おざなりに返事を返して、バートンは椅子に座った。やけに静かなことに今更ながら気付いて、子供たちの姿がないと悟った。
「子供たちはどうしたんだ?」
キッチンで朝食の支度をしてくれているセレナに訊ねると、「とうに学校に行ったわよ」と素っ気ない言葉が返ってきた。
そうか学校に行ったのか、と一人ごちりながらバートンはリビングテーブルの上に置かれた新聞を開いて、目を通す。べつにこれと言って目を惹くニュースはない。
二つの大国が核兵器の製造を競い合っている、という記事やどこぞで起きた殺人事件、政治的な記事が載っているだけだった。記事を読み終えたとき、丁度セレナが朝食を持って来た。
小さなソーセージが三本、目玉焼き、ブレット、オニオンスープ、チーズ。そしてコーヒーだ。
「ありがとう」
バートンは新聞をたたんで、セレナを見上げた。
「昨日は相当飲んだようね」
言いながら、バートンの向かいに座るセレナ。
「いや、そんなに飲んでないよ。僕はもともと酒に弱いんだ。ニ三杯飲んだ時点で殆ど記憶がない」
ふ~ん、と言って、「何の話をしてたの?」と好奇心からか、それともバートンの心の迷いを読んだからなのか、セレナは訊ねた。
「昔のことだとか、今のことだとか色々ね」
話を誤魔化すようにバートンはコーヒーを一口飲んだ。
カフェインがどんよりとした、意識をしゃっきっとさせてくれる。
「へ~色々ね~。あなた嘘つくとすぐにわかるのよね」
言っていたずらっぽくセレナはバートンの目を見つめた。
「嘘つかないでよ。本当のことを話して、今朝からチャップもちょっと沈んでたし、あなたも変よ。昨日喧嘩でもしたの?」
バートンはコーヒーをテーブルに置いて、顔を伏せた。
セレナにも話した方がいいかもしれない。
だってこの問題はみんなの問題なのだから。
「実は……ミロルのことなんだ……」
セレナの表情がこわばるのがわかった。
「あのまま目覚めないって、チャップは言うんだ……。いや、チャップだけじゃないカノンも、そして僕もそう思ってる……」
「それがどうしたの?」
バートンは包み隠さずすべてを話した。チャップたちの考え、そして自分の考え。すべてを話した上でセレナに訊ねた。
「セレナ。きみはどう思う……? そんなことやらない方がいいのか? それとも一か八か試してみるべきか?」
答えかねているのか、言葉が返ってこなかった。
恐る恐るセレナの顔をうかがうと、「試してみる価値はあると思う。行動に移さないと何も変わらない」とバートンの背中を押すように力強く言い放った。
その言葉を聞いてバートンの迷いは吹っ切れた。
自分はセレナに背中を押してもらいたかったのだ、と思う。
もう、迷いはない。
「あなたはいいの? あなたが体を張らなきゃならないんじゃないの?」
「僕は構わない。それに命までは取られないだろうし。僕は大丈夫、きみ達を残して死んだりしないから」
「大袈裟ね」
セレナは軽く口に手を添えて微笑んだ。妻の微笑みを見てバートンの心も軽くなる。この笑顔を見るためなら、僕は道化にだってなろう――バートンそう思った。
*
キクマは苛立ちの余り貧乏ゆすりが止まらなかった。
時計の針が九時を過ぎている。一時間以上も遅刻をしている部下。いつもマイペースな奴だが、今回ばかりは堪忍袋の緒が切れる直前だ。あと十分待っても来なければ、調教してやらねば――。
キクマは秒針が動く音に合わせ、貧乏ゆすりをした。
秒針が十二時を通過したとき、とびらがゆっくりと開かれすき間から眼がのぞいた。
「何やってた」
静かな怒りを称えた声でキクマはとびらの陰に隠れている部下に問う。
「え……ああ……ははは……」
などとつぶやきながら、バートンは頭を掻き、姿をあらわした。
「今何時だと思ってる?」
びくりと体を震わせながら、バートンは壁に掛けられた時計を見て「九時半ですね……」と泣き笑いのような顔で答えた。
「言い訳があるなら聞いてやるよ」
「いや~昨日久々に酒を飲みまして……二日酔いおば……」
「それだけか?」
バートンの額におかしな汗が沢山浮かび、顔が真っ青になった。
十分ほど説教を聞き、移動中の車の中でも嫌味が止まらなかった。
キクマの怒号を聞き過ぎて右耳が馬鹿になってしまっている。
やっと怒りが軽減されたところで、バートンは話題を変えた。
「もうすぐオーリヤックの町に付きますよ」
署があるトゥールーズの街から北東に車を走らすこと三時間、オーリヤックの町周辺にやって来ていた。
大家の記憶が正しければ、この町にアリシアが来たはずだ。もしかすれば、今も住んでいるかもしれない。キプスの母親。一体どのような人なのだろう。
今までの話を聞いた限りでは、とても素晴らしい女性だ。
そんな女性からあのような怪物が生まれるのだ。
オーリヤックの町を一通り回った。それほど大きくはない町だ。車で一周するのに三十分もかからない。バートンは町の北門付近に車を止めた。
「まず、どこから探しましょうか?」
「役所に決まってんじゃねえか」
「ですよね……」
言って二人は町の中央にある小さな役所に入った。
いつものことだが、当然キクマの物々しい姿を見ると役所の人間は恐怖で震えあがるのである。手帳を出しても、なかなか信じてもらえず苦労した。
三十分くらいかけてやっと、自分たちが刑事であることを信じてもらうことができた。そして、本題のアリシアの名前を出した途端、キクマたちの対応に当たっていた高齢の事務員の顔が明らかに歪んだ――。