file61 家族
重い空気だった。
昼下がりの室内は明暗がクッキリと分れ、光が差す側にキクマとバートン、影が落ちる方に大家が座っていた。大家の声は影に吸い込まれるかのように、暗い。
「あたしはアリシアを護ってあげられなかったんだ……。唯一あたしに心を開いてくれたって言うのに……あたしは彼女を護ってあげられなかった……」
大家は落ちくぼんだ目から涙を流しはじめた。
枯れた大地を思わせる目から、とめどなく水が湧き出る。
「そんなことないですよ……。人は話を聞いてもらうだけで気持ちが軽くなることがあるんですよ。僕も昔辛いことがあったとき、仲間に話を聞いてもらえて気持ちが軽くなったことがあります」
気休めにしかならないだろうと思うけど、バートンは伝えずにはいられない。きっとこの大家もアリシアがいなくなってしまってから、心に引っ掛かりを感じていたのだ。
「きっとアリシアさんもあなたに話すことで、少しは気持ちが軽くなったと思います。だから自分を責めないでください」
ひとしきり涙を流した後、大家は鼻をすすり上げ、「ちょっとスッキリしたよ」とさっきよりは明るい声で言った。
「で、アリシアは別れるとき、あんたに行き先を伝えなかったか?」
大家は昔に意識を飛ばすかのように目を閉じて、「そういえば、言ってたよ」とキクマを見て答えた。
「本当ですかッ」
驚いたのはキクマではなくバートン。
「ああ、確か……どこだったかね。ちょっと待っとくれよ……。確か――ここまで出てきてるんだよ」
言って大家は自分の首もとを人差し指で示した。
想い出そうと苦しそうに唸る大家を見て、バートンも苦しくなった。
「想い出そうそうとすると、想い出せないものなんですよ。紅茶でも飲んで、少し――」
休んでは? と言おうとしたが、大家はさえぎった。
「ちょっと、黙っとくれ。想い出せそうなんだよ」
大家はバートンの提案を一蹴して、再び唸りはじめた。
キクマにも睨みつけられて、バートンは蛇に睨まれた蛙になった。
「想い出した。想い出したよ」
「本当か、アリシアはどこに行くと言っていた?」
キクマは急く気持ちを抑えきれず、身を乗り出して問うた。
「オーリヤック、間違いない。歳を取ってもあたしの記憶は確かだよ。オーリヤックという町に行くと言っていた。そこでなんとか仕事を見つけて頑張ってみると言っていたよ」
「オーリヤックか。ここから結構距離があるな」
時刻が午後四時。今からは当然ながら行くことができない。
後日にするしかない。
「それくらいしかあたしは知らないよ」
「いえ、十分過ぎるほどです」
バートンがそう言うとキクマは立ち上がり、「ありがとう、本当に助かったよ」と頭を下げた。
「大家さんありがとうございます」
二人は大家のアパートを後にした――。
*
バートンはキクマを家まで送って、子供たちの待つ我が家に戻った。
家のドアを開けると、お尻まで届く長い黒髪をなびかせながら、バートンの子供ケイリーと弟のサムが飛び掛かってきた。
「パパ、おかえりッー」
バートンはケイリーとサムのタックルを受け止めて、二人同時に抱き上げた。
「ただいま。二人とも仲良くしてたか?」
バートンは二人の顔を覗き込みながら訊いた。
「仲良くしてたよ」
ケイリーは視線をそらして答えた。
「嘘だ。姉ちゃん嘘ついてるっ」
サムはすかさず告げ口をする。
「姉ちゃんぼくをいじめたんだっ」
二人を床に下して、「どうしてサムをいじめたりしたんだ?」とバートンはケイリーに厳しい目を向けた。
ケイリーはうつむきながら、バートンと目を合わせようとしない。
「姉弟仲良くしなきゃダメじゃないか」
ケイリーは気が強いのに対し、サムは内気な子供だった。
ケイリーにいつも振り回されサムはほとほと困っているようだ。
「サムに何をしたんだ?」
「だた……遊んでただけだもん……」
「何をして?」
バートンが首をかしげると、「ぼくが嫌だって言ってるのに、無理やり虫を近づけて来るんだっ」とサムはケイリーを指さしながら答えた。
サムは虫が嫌いだった。
悪気はないのだろうが、ケイリーはよくサムに虫を触らせたがる。
「ケイリー。虫が嫌いな人に無理やり虫を押し付けたりしたらダメだって、何度言えばわかってくれるんだ?」
「だって、男の子なのに虫が嫌いって、サム変なんだもん」
「虫が嫌いな男の子だっているさ。ケイリーは苦手なものはないのか?」
ケイリーはワンピースのスカートを握りしめて、黙り込んだ。
「な、ケイリーにだって嫌いなものの一つや二つあるだろ。もしその嫌いなものを無理やり近づけられたら嫌だろ。自分がされて嫌だと思うことを人にやっちゃダメだぞ」
言ってバートンはケイリーの頭をなでた。
そしてバートンはスリッパに履き替えようと思い、視線を下に下げると、知らない靴が出ていることに気付いた。男物の光沢を放つ茶色の革靴だった。
「誰か来ているのか?」
バートンは我が子たちに訊いてみた。
「おじさんが来てるの」
「おじさん?」
言ってバートンは玄関わきに並べられた黒いスリッパを履き、リビングのとびらを開けた。
「よう。久しぶりだな。どうだ、元気にしてたか」
リビングテーブルに座っていた男は、バートンが現れるなり手を上げて出迎えた。バートンもその男を見るのは久しぶりだった。
「久しぶりだなッ、チャップ」
バートンは椅子に座る男、チャップの下に歩み寄り軽いハグを交わした。
「久しぶりだな。どうしたんだよ? 訊ねて来るなんて」
「訊ねてきちゃいけないのか?」
「いや、すごく嬉しいよ」
「こっちに来る用事があったから、ついでにおまえ達の顔でも見てみようと思ったんだよ。ついでに泊めてもらおうと思ってな」
チャップはニヤリと笑った。
顔を見るよりも、今日の寝床を確保するためにやって来たっぽい。
「ああ、構わないさ」
チャップは孤児院を営んでいた。
親のいない子供たちを引き取って、衣食住を与え、勉強を教える。
マリリア教会での教えから、チャップは自分たちのような子供たちを一人でも減らそうと考えるようになった。そして、今では孤児院を営んでいる。
「だけど、来るなら来るって連絡してくれていれば、もっと色々準備ができたのに」
「そんなこと気にするなって」
バートンはスーツを木製ハンガーにかけて、壁のフックに吊るし、チャップの座るテーブルの向かい側に座った。
「ご飯食べたのか?」
バートンが訊ねたそのとき、キッチンの方から褐色の肌をした女性が顔を出した。
「おかえりなさい、あなた」
バートンは振り返って、微笑んだ。
「ただいま、セレナ――」