file60 不運は続くどこまでも
見るからに几帳面で散らかっている物は何もない。リビングとキッチンが繋がったスイートルーム状の部屋で、部屋に入ってすぐ目に飛び込んでくるのは壁際にふちどりされた大きな窓だった。
窓の外はバルコニーになっており、小鳥たちが手すりに置かれた餌をくちばしで器用についばんでいた。二人用の小さなテーブル椅子が部屋の中央に置かれている。
「椅子二つしかないんだよ」
「ああ、構いませんよ。僕は立ってますから」
バートンはキクマに椅子をすすめた。
「今紅茶を淹れてやるからちょっと待ってな」
「お気になさらずともいいですよ」
大家はやかんにコップ三杯分の水を注ぎ、火にかけた。
数分もしないうちに振動する蓋の音を響かせ、大家は用意していた紅茶ポットにお湯を注いだ。
「すまない」
キクマは軽く頭を下げお礼を言った。
「はい、これあんたの分」
大家はソーサーに載せたカップをテーブルの隅っこに置いた。
「ありがとうございます」
昼下がりの明暗の中、紅茶から出るかぐわしい蒸気の向こうに見る大家を見すえてキクマは切り出した。
「俺たちを中に通したってことは、大家さんはアリシアを知っているんだな?」
大家は眉根を寄せて、紅茶をすする。
「ええ、三十年以上も前のことだけど、アリシアはこのアパートに住んでいたんだ」
「その話俺たちに話してくれるか。俺たちは息子の願いでアリシアを捜しているんだ」
大家は驚いた顔で一瞬顔を上げて、すぐに目を伏せた。
「そうかい……そうかい……子供はちゃんと生きていたんだね。よかった……よかった」
過去を思い出すかのような目で一度外に視線を向けて、大家は意を決したようにキクマを見据えた。
「話してやるよ。三十年ほど前、アリシアはひょいっと現れたのさ。陰のある女でね。苦労してきたんだろうということが一目でわかったよ。
あたしとアリシアは同じくらいの年で、そのころ彼女は四十歳くらいじゃなかったかね。アリシアは過去を語らない女で、人とも余り関わらない子だったよ」
大家は陰のあるアリシアをほって置けなくなったらしい。
用事がなくても大家はアリシアの部屋に訊ねて、何か困ったことがないか? 男手が必要な仕事はないか? など積極的に関わっていった。
半年ほど続ける内にアリシアも少しは心を開くようになっていた。
そして大家もアリシアの過去に何かがあったことは承知していたが、興味本位で問いただしはしなかった。
アリシアは仕事熱心な女だったそうだ。
今はたたんでしまってないが、このアパートから少し行ったところに綿織物工場があったのだという。アリシアはそこで額に汗しながら働いた。
大家が「そんなに働いてどうするんだい。体を壊しちゃ元も子もないじゃないか」と諭するとアリシアは言ったという。
「子供を捜しているんです。子供を捜すのにお金が必要なんです……」
と答えたそうだ。
そのころアリシアは四十ちょっと、キプスは二十代ほどだろうか?
アリシアは人探しの専門家を雇い、子供を捜し続けていた。
だが、手がかり一つないのだから、捜し出すのは不可能に近い。
キクマの言っていることが正しいのであれば、キプスはトゥールーズの街で殺人を行っていた。そして、何の因果かその街で自分はスリをして生きていたのだ。
もしかしたら、若かりし頃のキプスに自分は出会っていたかも知れない、と思うバートン。
何の成果もあげられないまま、時間と金だけがなくなっていく日々。
「子供はきっと見つかるわよ。大丈夫、そう焦ることはないわよ。生きていれば、あなたの子は二十代でしょ。きっと大丈夫、どこかで強く生きているわ」
大家は何度も遠回しな説得を試みたという。
だが、アリシアは気が狂ってしまったかのように、大家の話しに耳をかさなかった。働いて貯めたお金は自分のために消えるのではなく、身になることのない、捜索のために消えてしまう。
大家は口には出さなかったが、もう子供は生きていないのではないかと思った。どういう事情で子供を教会に預けたのかは教えてもらえなかったが、子供はある日教会から逃げ出したのだとアリシアは言った。
そして逃げ出した子供はそのまま帰ってくる事なく、今に至る。
子供は当時十二、三歳だったのだろう。まだ一人で生きていくには若すぎた。
誰かに拾われて暮らしているのならともかくとして、当てもなく彷徨い歩いて野垂れ死にや、獣に襲われてしまったのならもうこの世にはいないだろう……。
大家はその酷な現実をアリシアに突きつけることができなかった……。
この女が今までどんな人生を送ってきたかは知らないが、きっと想像を絶する苦労をしてきたのだろうことはわかったからだ。
アリシアが大家のアパートに住みはじめて、二年が過ぎたころアリシアは仕事仲間たちからいじめを受けていることを大家は知った。
ある日、泣きはらした顔で仕事から帰ってくる姿を偶然目撃してしまったのだ。大家は当然、何があったのかを訊ねた。だが、アリシアは答えてくれなかった。
どれだけ訊ねようとアリシアは答えてくれない。
大家はアリシアと同じ工場で働いている人間を、外で待ち構えて聞き出すことができた。
アリシアは工場長に想いを寄せられていたという。
無理のないことだった。四十代になっているとは言え、アリシアは目を引くほどに美しかった。そして憂を帯びていた。男は陰のある女に不思議と惹かれるものだ。
アリシアは工場長の目に止まり、想いを寄せられていた。
しかしアリシアは工場長を拒み続けた。
どれだけ迫られようと拒み続けた。そんなある日、工場長はアリシアの気持ちも関係なしに、無理やり押し倒したのだという。
アリシアは抵抗して、工場長に恥をかかせた。
そのことが引き金になり、工場長はアリシアへの復讐心を抱いたのだ。うわゆる逆恨み。工場長は従業員を差し向け、アリシアへのいじめがはじまった。
「何て酷い……」
バートンはアリシアへの同情心でいっぱいだった。
人間ここまで不運が続くものなのか?
「そして、アリシアはこの街から出ていってしまったんだよ……」