file56 男の血筋 女の血筋
翌日の早朝から何事もなかったようにアリシアは、アレンとカレンのために腕によりをかけて料理に打ち込んだ。
パイ生地を作り、玉ねぎとベーコンを炒める。作ったパイ生地にベーコンと玉ねぎを敷き詰めて、昨日買ったブロック状のチーズを削って、敷き詰めたベーコンと玉ねぎの上にかぶせた。
キッシュロレーヌの生地を温めていた窯で焼いた。
後はコーンスープ、サラダを作る。
一つのことに打ち込んでいるときは、余計なことを考えなくていいから楽だった。だが、すべて仕事を終えてしまい、否が応でも現実に引き戻されるときが来た。
男に居場所が知られてしまった……。
どうして居場所を知られることになったかはわからない。
だが、今更過去の過失を悔いたところで取り返しは付かなかった。
男の言葉が頭の中で何度も反復され、気が狂ってしまいそうだった。いったいどこで間違ってしまったのか……。
ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああぁあぁぁあああああぁ、頭の中が渦巻いて、発狂してしまいたい。
だが、そのようなことになれば我が子は心の支えを失くしてしまう。
自分がしっかりしないといけないのだ。
「母さん。大丈夫?」
「母さんは大丈夫よ」
アリシアの表情は無表情で、瞳の光は消え失せていた。底なし沼のように虚ろとした目には我が子の姿すら映っていない。
アリシアの言葉は機械的で、感情で言葉を紡いでいるのではなく、機械にインプットされた言葉をただ話しているだけで、起動哀楽は愚か、起伏すら感じられない。
「あの男のもとに戻りたくないなら、逃げちゃおうよ」
ボーっと椅子に座っていたアリシアはゆっくりと首を傾けて、となりに立つ我が子を見た。
「逃げる?」
「そうだよ。逃げちゃえばいんだよ。母さんとぼくとでもう一度、あの男の手が届かない、どこか遠くへ逃げちゃえば。もっと、遠くへ」
アリシアは呆然と我が子を見つめていた。
ああ、何もかも忘れられて逃げられれば、どれほど幸せだろう。
何もかも忘れてしまいたい……。
何もかも、忘れてどこか遠くへ行きたい……。
だが……。
「ね、母さん。このままじゃ母さんが壊れちゃうよ」
我が子はアリシアを見上げながら、袖を掴んで優しく言った。
「逃げる? ――逃げる……?」
アリシアは天井を仰いで、ボソボソと何かをつぶやき、頭を覆った。
「逃げられるわけないでしょッ! 私たちが逃げたら、アレンさんやカレンちゃんがどんな目に遭うかわかってるのッ! あなたはそれを知って言ってるのッ」
アリシアは椅子を押し倒して立ち上がり、我が子に向き合って手を振り上げた。
手の平が我が子の頬を打った感触で、アリシアは我に返った。
ジンジンとする手の平を動揺に揺れる瞳で眺めて、アリシアは恐る恐る床に倒れる我が子に視線を向けた。
我が子には何があろうと決して手を上げないと決めていたのに……どうして、我が子は床に倒れているのだろう……? どうして手の平がジンジンと痛んでいるのだろう……?
誰に確認するまでもなく、自分が手を上げてしまったのだ、とアリシアは気付いていた。
「ごめん……ごめんね……母さんどうにかしてた……ごめんね」
アリシアは我が子に急いで歩み寄り、すがりつくような格好で覆いかぶさった。
「本当にごめんなさい……手を上げるつもりなんてなかったの……本当にごめんなさい……」
アリシアは涙を流しながら、我が子の赤く腫れた頬に触れた。
「本当にごめんなさい……母さんを嫌いにならないで……」
アリシアは我が子をかき抱いて、無我夢中で許しを請うた。
その姿からは母というより、一人の少女のようなか弱さが感じられた。
「大丈夫だよ。母さん。ぼくは母さんを嫌いにならないよ。だから、心配しなくても大丈夫だよ」
我が子はアリシアの嗚咽で震える背中をなでながら、「大丈夫、大丈夫」と子供を励ますように振舞った。
「本当にごめんなさい……」
アリシアひとしきり泣き、謝り続けた。
「母さんはやさしいね」
「いえ、私は優しくなんかないわ……」
我が子はいい子いい子するかの如くアリシアの頭をなで続けた。
「母さんはカレンやアレンのことを考えているじゃないか。人のことを想える人は、やさしい人だよ」
我が子は六歳の子供とは思えないほど明瞭な言葉を話した。
「お世話になったのに、二人がどうなろうとぼくは心が痛まないと思うんだ。母さんさへ無事なら、あの二人がどうなろうと、ぼくはきっと心が痛まないんだ。母さんには幸せになって欲しいんだ。母さんが幸せになるのなら、ぼくは犠牲にだってなるよ」
我が子は淡々と言った。
「母さんが幸せになるためなら、ぼくは悪いことだって平気でできちゃうよ。ぼくはきっと将来酷い人間になるよ」
アリシアは我が子から離れて、「いえ、あなたは酷い人間にはならないわよ。だって、こんなに優しい子だもの」と両肩を持って力強く言い放った。
「だけど、ぼくにはあの男の血が流れているんでしょ? だから、ぼくも将来あの男のような人間になっちゃうんじゃない?」
「あなたはあの男のようにはならない。酷い人間にはならないわ。絶対に。私が保証する。だって、あの男の子供である前に母さんの子供なんだから」
底なし沼のように虚ろだったアリシアの瞳に光が戻っていた。
「あの男の下になんて戻りたくないけど……。アレンさんとカレンちゃんにはこれ以上迷惑を掛けられない。お別れをしましょうか。あの男の下に戻っても、私が絶対に護ってあげるから、何があろうと絶対に護ってあげるから。ね、だから心配しないで」
「うん、ぼくは母さんと一緒なら、どこでだって生きられるよ。あの男の下でだって生きられるよ」
「ありがとう」
我が子に言って、もう一度強く抱きしめた――。
*
二人は昼過ぎに帰ってきた。
アリシアは合わせる顔をもたない。自分たち親子が現れたせいで二人からかけがえのない父親を奪ってしまったのだから。
謝れるものなら謝りたい。
だが、謝りたくとも謝れない。謝ってしまえば、アレンとカレンの身にも危険が及ぶ。墓場までこの秘め事を持って行くしかない。
恩返しをしたかったが、自分には不可能な夢だった。
厄災しか二人に与えることができなかった。
こんな女は二人の前から消えよう。
疫病の神は消えよう、二人の前から永久に――。