file55 断ち切れぬ鎖
昔からそうだった――。母はこんなことを言っていた。
(人間に与えられた幸せの量には決まりがあるんだよ)
本当にそうだと思う。自分は余りに幸せを使い過ぎた。
一生涯で使う幸せの量をここ半年で使い切ってしまったのだ。そして今日すべての幸せを使ってしまった。だからこうなったのは必然なのだろう。
消える寸前の蝋燭が、強く燃え上がるように、今日が自分にとっての最後の灯だったのだと、アリシアは考えた。
きっとすでに幸せを使い切っていて、今日をもって急降下しはじめただけなのだ、と。
「よう、久しぶりだな」
生理的に受け付けない声……。
人間が不快に感じる波長数をした声……。
「返事ぐらいしたらどうだ。旦那様がせっかく迎えに来てやったって言うのによ」
アリシアは呆然と立ち尽くしていた。絶望した人間は叫ぶでも暴れるでもなく、ただ立ち尽くしていることしかできないのだ。
「そうか、そうか。おまえも嬉しいかアリシア」
男は靴も脱がずにリビングに上がり込み、我が家の如く居座っていた。
「なんで……」
「あ?」
「なんで……あなたがここにいるんですか……」
「おまえを迎えに来たからに決まってんだろ」
言いながら男は立ち上がった。体格がよく身長は180㎝以上あり、脂ぎったぼさぼさの髪を無作法に伸ばしている。無精ひげを生やし、野性的な印象をした男。
笑うときに覗く歯は汚く、体中の毛穴と言う毛穴から酒臭い臭いが放出され、近寄るもの皆が嫌悪感を表すだろう。
「来ないで……」
アリシアは男が前進した分だけ、背後に下がった。
「どうして逃げるんだよ、え? 迎えに来てやったんじゃねえか」
「帰って……。今すぐこの家から出てってッ」
アリシアは恐怖心を、わずかにのこった自尊心で抑え込み言い放った。
男は威嚇する肉食動物のように鼻に皺を刻んで、「は? 何言ってんだ。こっちはわざわざ迎えに来てやったんじゃねえか。どれだけ、大変だったと思ってんだよ。おまえに俺の気持ちがわかるのか? えッ!」とガラスを揺るがす程の大音声でアリシアを脅した。
「帰って……帰ってくださいっ!」
男はアリシアに早足で歩み寄り、ゴツゴツとした手のひらで彼女の頬を打った。久しぶりに感じる激痛にアリシアは言葉を失くし、床に倒れ込んだ。
「何が帰れダッ! 捜しに来てやった旦那に帰れダッ! おまえが俺に命令できるほど偉くなったのかよッ」
男はしゃがみ込み、アリシアの髪の毛を掴んで耳元で言い放った。
鼓膜がジンジンとして、一瞬何も聴こえなくなった。
「俺のこと嫌いになったんじゃないよな? 俺は今でもおまえを愛しているんだぜ。なあ、おまえは俺を見捨てたりしないよな?」
今さっきまでの大音声が嘘だったかのように、男の声は優しくか細かった。アリシアは一瞬騙されそうになった。本当に私のことを愛してくれていたのか、と。
昔の自分ならその言葉に騙されていただろう。だが、今は違う。本当に愛してくれているのなら、暴力など振るうはずがないのだ。
「おまえは俺のことわかってくれるだろ? な? 坊主と一緒に帰ろう。貧しいながらも、楽しい暮らしを送ってたじゃねえか。なあ、おまえも楽しかっただろ?」
誰が楽しいものか……。
我が子を逃がさなければ……我が子を逃がさなければ……。アリシアは勇気を振り絞って、玄関で待つ我が子に叫んだ。
「逃げてッ! 逃げてッー!」
男の額に青筋が浮かんだのがわかった。
「こっちが下手に出てりゃあ、調子に乗りやがってッ。恩を仇で返すってえのかッ!」
男はアリシアの髪をつかんだまま、平手打ちを浴びせた。
口の中が切れねっとりとした血が舌の上に広がる。
「おまえが悪いんだぞ。おまえが逃げなければ、あの男も死ななくて済んだんだからな。まったくおまえは疫病神だなッ」
「あの男……?」
アリシアはもつれる舌を懸命に動かして、言葉を継いだ。
嫌な予感がする……まさか、まさか……この男とてまさかそこまでしないだろうと、思いたかった……。
「おまえが悪いんだからな。おまえが俺を捨てて、出ていっちまったから。すべておまえが悪いんだからなッ!」
男は狂ったようにまくし立てた。
「男って誰なのッ!」
「この家の主人だよ。アレンだったか? そいつの旦那だ」
身も凍る残忍な笑みを浮かべた。
世界が暗黒に閉ざされた……。
この男はそこまでする男だったのだ……。
自分は男のことをまだ甘く見ていたのだ、とアリシアは思い知らされた。
「あ、あなたが旦那様を……旦那様を殺したの……?」
「俺じゃねえ。殺したのはおまえだ。おまえが俺から逃げたからだ」
まさかそこまでするなんて……。自分は本当に疫病神だったのだ。自分がテイラー家のお世話にならなければ、カレンから父親をアレンから旦那を奪われなくてすんだ……。
この男を殺してやりたいという、憤怒の感情でアリシアの頭はいっぱいだった。
「そんな顔で睨まないでくれよ」
アリシアは獣のようにもがき、髪の毛が引っ張られる痛みも感じないまま、男に殴りかかった。
「俺に逆らうのか? 子供がどうなってもいいんだな?」
アリシアはつかんでいた男の胸倉を放し、振り返った。廊下に二人の男に取り押さえられた我が子が、立ち尽くしていた。
「奥さん久しぶりですね」
目の下に隈を作り、頬のこけた不健康そうな男は薄ら笑いを浮かべて言った。
「ガキがどうなってもいいのか?」
男は顎をしゃくって廊下に立つ男二人に合図を送ると、我が子の手が捻りあげられた。
「やめてッ。折れちゃうッ」
アリシアが言うまで、子供は痛みを訴えることをしなかった。
「おまえが悪いんだぞ。おまえが俺に逆らうから、ガキの腕が折れるんだ」
「逆らわない。逆らわないから、やめて……」
男が再び顎をしゃくると、男二人は我が子の関節を固めていた拘束を解いた。
「俺に逆らったらどうなるかわかるよな?」
「ええ」
「よし、いい子だ」
男は汚い歯を覗かせて薄ら笑いを浮かべ、「俺の言うことを訊いてくれるよな?」とアリシアの頬に触れた。
「ええ……」
「じゃあ、この家の奴らに怪しまれないよう別れを告げろ。もし、不審がられるようなら、この家の女二人も旦那と同じ目に遭わすぞ」
「ちょっと待ってくださいよ親分。カレンって女抱かせてくれるんじゃなかったんですか?」
廊下に立つ不健康そうな男が唇を尖らせ、不服そうに言った。
「黙れ。もしアリシアが気取られるようなことがあれば、好きに可愛がってやればいい」
「そんな、話が違いますよ。何のためにこの半年捜すのを手伝ったと思ってるんですか? やっと居場所を突き止め、あの女を抱けるってんで、あの男を殺したって言うのに」
「文句でもあんのか?」
男の猛禽類のような眼光に睨まれた者は、それ以上反抗する気力を失くす。
「いえ……ありません……」
アリシアもすでに反抗する気力を削がれていた。
もう、逆らう気などない。逆らわなければ、このような悲劇にはならなかったのだ。自分が逃げ出さなければ、旦那様が殺されずに済んだのだ。すべて自分が蒔いた種。すべて自分が悪いのだ。
「わかったな。俺はいつでもおまえを見てるぞ。おかしな真似をしたらすぐにわかる」
「ええ……」
「三日猶予をやる。それまでに別れを済ませな。三日後町の正門に迎えに来るからな。逃げようなんて考えると、あの家族の命はないと思え。上手くやれよ」
男はアリシアの髪を放して立ち上がった。
「おめえら、行くぞ」
男たちの去った後には、汚れた靴の跡だけが廊下に残された――。