表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
270/323

file55 断ち切れぬ鎖

 昔からそうだった――。母はこんなことを言っていた。

(人間に与えられた幸せの量には決まりがあるんだよ)

 本当にそうだと思う。自分は余りに幸せを使い過ぎた。


 一生涯で使う幸せの量をここ半年で使い切ってしまったのだ。そして今日すべての幸せを使ってしまった。だからこうなったのは必然なのだろう。


 消える寸前の蝋燭が、強く燃え上がるように、今日が自分にとっての最後の灯だったのだと、アリシアは考えた。


 きっとすでに幸せを使い切っていて、今日をもって急降下しはじめただけなのだ、と。


「よう、久しぶりだな」


 生理的に受け付けない声……。

 人間が不快に感じる波長数をした声……。


「返事ぐらいしたらどうだ。旦那様がせっかく迎えに来てやったって言うのによ」


 アリシアは呆然と立ち尽くしていた。絶望した人間は叫ぶでも暴れるでもなく、ただ立ち尽くしていることしかできないのだ。


「そうか、そうか。おまえも嬉しいかアリシア」


 男は靴も脱がずにリビングに上がり込み、我が家の如く居座っていた。


「なんで……」


「あ?」


「なんで……あなたがここにいるんですか……」


「おまえを迎えに来たからに決まってんだろ」


 言いながら男は立ち上がった。体格がよく身長は180㎝以上あり、脂ぎったぼさぼさの髪を無作法に伸ばしている。無精ひげを生やし、野性的な印象をした男。


 笑うときに覗く歯は汚く、体中の毛穴と言う毛穴から酒臭い臭いが放出され、近寄るもの皆が嫌悪感を表すだろう。


「来ないで……」


 アリシアは男が前進した分だけ、背後に下がった。


「どうして逃げるんだよ、え? 迎えに来てやったんじゃねえか」


「帰って……。今すぐこの家から出てってッ」


 アリシアは恐怖心を、わずかにのこった自尊心で抑え込み言い放った。


 男は威嚇する肉食動物のように鼻に皺を刻んで、「は? 何言ってんだ。こっちはわざわざ迎えに来てやったんじゃねえか。どれだけ、大変だったと思ってんだよ。おまえに俺の気持ちがわかるのか? えッ!」とガラスを揺るがす程の大音声でアリシアを脅した。


「帰って……帰ってくださいっ!」


 男はアリシアに早足で歩み寄り、ゴツゴツとした手のひらで彼女の頬を打った。久しぶりに感じる激痛にアリシアは言葉を失くし、床に倒れ込んだ。


「何が帰れダッ! 捜しに来てやった旦那に帰れダッ! おまえが俺に命令できるほど偉くなったのかよッ」


 男はしゃがみ込み、アリシアの髪の毛を掴んで耳元で言い放った。

 鼓膜がジンジンとして、一瞬何も聴こえなくなった。


「俺のこと嫌いになったんじゃないよな? 俺は今でもおまえを愛しているんだぜ。なあ、おまえは俺を見捨てたりしないよな?」


 今さっきまでの大音声が嘘だったかのように、男の声は優しくか細かった。アリシアは一瞬騙されそうになった。本当に私のことを愛してくれていたのか、と。


 昔の自分ならその言葉に騙されていただろう。だが、今は違う。本当に愛してくれているのなら、暴力など振るうはずがないのだ。


「おまえは俺のことわかってくれるだろ? な? 坊主と一緒に帰ろう。貧しいながらも、楽しい暮らしを送ってたじゃねえか。なあ、おまえも楽しかっただろ?」


 誰が楽しいものか……。

 我が子を逃がさなければ……我が子を逃がさなければ……。アリシアは勇気を振り絞って、玄関で待つ我が子に叫んだ。


「逃げてッ! 逃げてッー!」


 男の額に青筋が浮かんだのがわかった。


「こっちが下手に出てりゃあ、調子に乗りやがってッ。恩を仇で返すってえのかッ!」


 男はアリシアの髪をつかんだまま、平手打ちを浴びせた。

 口の中が切れねっとりとした血が舌の上に広がる。


「おまえが悪いんだぞ。おまえが逃げなければ、あの男も死ななくて済んだんだからな。まったくおまえは疫病神だなッ」


「あの男……?」


 アリシアはもつれる舌を懸命に動かして、言葉を継いだ。

 嫌な予感がする……まさか、まさか……この男とてまさかそこまでしないだろうと、思いたかった……。


「おまえが悪いんだからな。おまえが俺を捨てて、出ていっちまったから。すべておまえが悪いんだからなッ!」


 男は狂ったようにまくし立てた。


「男って誰なのッ!」


「この家の主人だよ。アレンだったか? そいつの旦那だ」


 身も凍る残忍な笑みを浮かべた。

 世界が暗黒に閉ざされた……。

 この男はそこまでする男だったのだ……。

 自分は男のことをまだ甘く見ていたのだ、とアリシアは思い知らされた。


「あ、あなたが旦那様を……旦那様を殺したの……?」


「俺じゃねえ。殺したのはおまえだ。おまえが俺から逃げたからだ」


 まさかそこまでするなんて……。自分は本当に疫病神だったのだ。自分がテイラー家のお世話にならなければ、カレンから父親をアレンから旦那を奪われなくてすんだ……。


 この男を殺してやりたいという、憤怒の感情でアリシアの頭はいっぱいだった。


「そんな顔で睨まないでくれよ」


 アリシアは獣のようにもがき、髪の毛が引っ張られる痛みも感じないまま、男に殴りかかった。


「俺に逆らうのか? 子供がどうなってもいいんだな?」


 アリシアはつかんでいた男の胸倉を放し、振り返った。廊下に二人の男に取り押さえられた我が子が、立ち尽くしていた。


「奥さん久しぶりですね」


 目の下に隈を作り、頬のこけた不健康そうな男は薄ら笑いを浮かべて言った。


「ガキがどうなってもいいのか?」


 男は顎をしゃくって廊下に立つ男二人に合図を送ると、我が子の手が捻りあげられた。


「やめてッ。折れちゃうッ」


 アリシアが言うまで、子供は痛みを訴えることをしなかった。


「おまえが悪いんだぞ。おまえが俺に逆らうから、ガキの腕が折れるんだ」


「逆らわない。逆らわないから、やめて……」


 男が再び顎をしゃくると、男二人は我が子の関節を固めていた拘束を解いた。


「俺に逆らったらどうなるかわかるよな?」


「ええ」


「よし、いい子だ」


 男は汚い歯を覗かせて薄ら笑いを浮かべ、「俺の言うことを訊いてくれるよな?」とアリシアの頬に触れた。


「ええ……」


「じゃあ、この家の奴らに怪しまれないよう別れを告げろ。もし、不審がられるようなら、この家の女二人も旦那と同じ目に遭わすぞ」


「ちょっと待ってくださいよ親分。カレンって女抱かせてくれるんじゃなかったんですか?」


 廊下に立つ不健康そうな男が唇を尖らせ、不服そうに言った。


「黙れ。もしアリシアが気取られるようなことがあれば、好きに可愛がってやればいい」


「そんな、話が違いますよ。何のためにこの半年捜すのを手伝ったと思ってるんですか? やっと居場所を突き止め、あの女を抱けるってんで、あの男を殺したって言うのに」


「文句でもあんのか?」


 男の猛禽類のような眼光に睨まれた者は、それ以上反抗する気力を失くす。


「いえ……ありません……」


 アリシアもすでに反抗する気力を削がれていた。

 もう、逆らう気などない。逆らわなければ、このような悲劇にはならなかったのだ。自分が逃げ出さなければ、旦那様が殺されずに済んだのだ。すべて自分が蒔いた種。すべて自分が悪いのだ。


「わかったな。俺はいつでもおまえを見てるぞ。おかしな真似をしたらすぐにわかる」


「ええ……」


「三日猶予(ゆうよ)をやる。それまでに別れを済ませな。三日後町の正門に迎えに来るからな。逃げようなんて考えると、あの家族の命はないと思え。上手くやれよ」


 男はアリシアの髪を放して立ち上がった。


「おめえら、行くぞ」


 男たちの去った後には、汚れた靴の跡だけが廊下に残された――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ