file54 ひと時の幸せと転落
半年以上暮らしてきたが、センティアの町がこれほど賑わっているとは知らなかった。我が子の手を放せばすぐにはぐれてしまうだろう。
我が子はカレンと出かけることがあり、地理は心得ているだろうから、迷子になるのはきっと自分の方だ、と思うアリシア。我が子に手を引かれるがまま、アリシアは繁華街にやって来ていた。
色々な出店があり、不思議と心が躍った。食べ物を売っている店。雑貨を売っている店。キャンバスを広げた似顔絵師。まるでお祭りだった。
「カレンはよくあれを買ってくれるんだ」
我が子がそう言って指を指したのはフランクフルトの出店だった。
「そうなの」
あのカレンがフランクフルトを食べるとは意外だった。
ケーキだとか果物だとかなら納得できるが、脂っこいフランクフルトなのだ。
「食べたい?」
我が子は立ち止まりしばらく考えていたが、「母さんは食べたい?」と訊ね返した。
「そうね。母さんも食べてみたいわ。食べましょうか」
アリシアは出店の店主にフランクフルトを二本頼んだ。
「あれ、坊主。今日はいつもの姉ちゃんじゃねえんだな」
カレンたちは顔なじみになっているようだ。
「うん。カレンは葬式に行ったんだよ」
「葬式?」
店主は想像だにしていなかった解答にそれ以上、深堀しようとはしなかった。
「で、あんたがこの子のお母さんかい?」
「はい。はじめまして。いつもこの子がお世話になって」
店主はアリシアにフランクフルトの棒を二本渡し、「お世話になっているのはこっちの方だよ。買ってもらってるんだから」と笑った。
「じゃあな坊主。お母さんを護ってやるんだぞ」
「うん」
アリシアはフランクフルトを食べた。太いフランクフルトを噛むと、パリッという音が顎を伝い、頭蓋骨にまで響いた。そして肉汁の霧が舞った。
マスタードとケチャップが程よいアクセントになって、濃い味だけど一本まるまる食べられる。
「美味しいね。母さんフランクフルト食べるのはじめてよ。こんなに美味しいなんて知らなかった」
「カレンも美味しいって言ってた」
食べ終えたフランクフルトの棒を持て余しながら、アリシアは何を作ろうか考えた。二人が帰ってくるのは明日。元気の出る料理がいいが、何を作ればいいのか考えていなかった。
肉だろうか? 魚だろうか? あっさり系がいいだろうか? スタミナのつくこってり系がいいだろうか? 半年も共に過ごしていたけど、何が好きなのかを聞きそびれていた。
まったく学ばないな、とアリシアはつくづく自分の愚かしさにうんざりする。いや、考えろ、考えろ……。半年も共に暮らしているのだ。自分が忘れているだけで、話を聞いているかもしれないし、何かヒントがあったかも……。
そのとき肉屋から、「ベーコンが安いよッ~」という声が聞こえ、アリシアは思い出した。
確か二か月ほど前にキッシュロレーヌという料理をカレンが作ってくれた。そのときに「あたし、これ好きなのよ」とアレンが言っていたではないか。
アリシアはキッシュロレーヌを作ろうと決めた。
そうと決まれば、我が子にも訊ねてみる。
「明日はキッシュロレーヌを作ろっか」
「うん」
アリシアは盛大な呼び込みを行っている肉屋でブロックのベーコンを買い、玉ねぎ、トウモロコシ、卵、バター、牛乳を買いそろえた。
メインとなる料理が決まると、次々とコースが湧いてくる。
メインはキッシュロレーヌで、コーンスープ、ブレッド、サラダで決まりだ。
サラダに必要な野菜と、パン屋でブレッドを買いそろえて買い物は終了した。買い物などいつぶりだっただろう。男と共にいたときは、買い出しがこれほど楽しいものだとは思わなかった。
ただ言われるがまま男が食べたがる料理を作り、言われるがまま男の要求するものを買いに行った。何も考えずに好きなものが買えて作れる、ただそれだけで幸せなのだ。
「買い出しも終わったから、散歩して帰ろうか」
我が子はブレッドの入った紙袋を右手に抱いて、開いている方の左手でアリシアの右手を掴んでいた。
「どこか寄りたいところある?」
「広場」
「広場まで案内してくれる」
我が子はアリシアの手を引いて、繁華街を抜け、アパートメントが立ち並ぶ一角を通り、しばらく進んだ先にある広場に案内してくれた。
城壁のように覆われたアパートメントを抜けた先は、とても開けた広場だった。広場の中央には噴水があって、旅芸人らしき一団が曲芸を披露している最中だった。
「ほら、あれ見て、曲芸をやっているわよ」
笑い泣きのメイクをしているクラウンが、集まった群衆の中央でパントマイムを踊っていた。あるはずもない壁を押してみたり、玉乗りをしてみたり、大袈裟な動きで笑いを取っている。
その他にも芸人が入った樽に、次々と剣が突き刺されていく見世物もあった。一体どうなっているのかはわからないが、剣を次々刺されていくにもかかわらず、芸人は平然としている。
カラフルなボールをジャグリングする人、箱の中に入ったまま消えてしまった人、風呂敷の中から鳩を出す人。体操選手のように軟体技を披露する人。
多種多様に色々な芸を披露する芸人たちに、アリシアは魅せられた。芸を見物することなど、生まれて初めてだった。三十分の間、飽きることなく見続けていた。
すべてが終わったころには拍手も忘れて、呆然と余韻に浸る。
アリシアの前にシルクハットを持った芸人の一人がやってきて、やっと我に返ったアリシア。
「とても素晴らしかったです」
言いながら、アリシアはシルクハットの中にお金を入れた。
帽子を胸の前にかざして、芸人は頭を下げた。
「楽しかったわね」
「ぼくは何度か見たことあるよ」
「そうなの。母さんははじめて見た。話には聞いたことあるけど、実際に見ると凄いのね」
帰宅路を歩きながら、アリシアは興奮冷めやらぬまま言いつのる。
そのとき、アリシアの手を引いて我が子は足早に歩きはじめた。危うくつまずきそうになるのを何とか堪えて、「どうしたの……」と訊ねる。
「最後に見せたいところがあるんだ」
「見せたいところ?」
我が子に引かれるまま、アリシアは足早に歩く。
人通りの少ない路地を抜けての遠回りだ。
「どこに行くの?」
十分ほど歩いただろうか。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた路地を抜けた先には、庭園があった。周辺を生垣で囲まれ、生垣を抜けた先には色々な花々が植えられ、小鳥たちが囀る別世界。
「ここを見せたかったの?」
我が子はうなずいた。生垣は迷路のように張り巡らされていて、色彩豊かな花が植えられていた。
ベンチも所かしこに置かれて、恋人たちが肩を寄せ合い座っている。
とても美しい場所だった。
「とても綺麗。カレンちゃんが教えてくれたの?」
我が子はうなずいた。
「そう。それで母さんにもわざわざ?」
照れているのか判然としないが、我が子は前を向いたまま無口にうなずいた。
我が子と二人アリシアは迷路のように入り組んだ生垣を、ゆっくりと進んだ。我が子と共に歩けるこの時間を幸せというのだろう。
心にゆとりがなく、花は愛でるものだということを考えたこともなかった。小さいときから一日を生きるのにいっぱいいっぱいで、このようにゆったりとした時間を過ごしたことなどなかった。
あれよあれよと父が亡くなり、母が過労で倒れ、学校も殆ど通わずにずっと働き、あの男と出会ってしまって、我が子を産んだ。はじめはあんな男の子供がお腹の中に入っていると思うと、体中が総毛立つ思いだった。
産んだとしても我が子を愛せるのか不安だった。
だが産んでしばらくすると、この子が生きがいになったのだ。
辛く苦しい世界を生き抜く唯一の道しるべとなった。
我が子の道しるべに従いながら、十分ほどで生垣の迷路を抜けた。帰宅路につきながら、日が暮れはじめた空を眺め思った。
「今日は本当にいい日だったわね。母さんを導いてくれて、ありがとう」
屈託のない微笑みを浮かべてアリシアは我が子を見ると、我が子は唇をとんがらかして恥ずかしそうに「うん」とうなずいた。
楽しいお出かけも終わり、アリシアたちは家に帰ってきた。
カバンの中にしまっていた鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだとき異変を感じた。鍵が掛かっていない……。
掛け忘れでは決してない……。ちゃんと鍵を掛けた……。では、なんで……。恐る恐るドアノブを捻り、とびらを開けて中をうかがい見た。
予定が早まり、カレンたちが帰ってきたのだろうか……?
固唾を飲み込み、アリシアはゆっくりと玄関に足を踏み入った。
「様子を見てくるから、ここで待ってて」
我が子に言って、アリシアは足音を立てずにゆっくりと廊下を進んだ。別に荒らされた様子はない。やはり、鍵を掛け忘れただけだろうか、と思い直してリビングに続くとびらを開けた。
そのとき、アリシアは悪夢でも見ているのではないだろうか、と我が目を疑った。
「よう、逢いたかったぜ。どれほどおまえを捜したことか。おまえを想わない日はなかったッ。なあ、アリシアッ」
その悪魔の声にも似たしゃがれた声。
聞いているだけで耳を覆いたくなる声は……男のものだ――。