file53 疫病の神――
何事もなくテイラー家での生活が半年ほど過ぎたある日、その災いは突如訪れた。
考えたくもない訃報……。昔母が言っていたように、幸せは長くは続かない。そうアリシアは知っていたはずなのに、それでも神を恨まずにはいられなかった。
幸せの後には不幸が訪れる、そうして世界は循環しているのだと、アリシアはずっと前から知っていたはずなのに……神を恨まずにはいられない……。
いつ不幸が降りかかってきてもいいように、心の準備はしていたはずなのに……自分ではなく身近な者に訪れるなんて……。幸せな者のそばにいれば、幸せな気持ちになるように、不幸な者のそばにいれば不幸は伝染する。
きっとこの不幸も自分たち親子をかくまったせいで降ってきた、厄災なのだと。
カレンの父であり、アレンの夫が仕事帰り、夜道で何者かに背中を刺され急死した。
通り魔は必要以上に背中を刺し、アレンの夫は無残に殺された……。家族にも見せられないほど無残に……。
職業上恨みを買うことがあったとは言え、余りに惨い殺され方に悲しみよりも恐怖を抱かずにはいられない……。
アレンの夫を殺した犯人はまだ捕まっていない。翌日、必要最低限の文字を削りに削り落とし、タイプで打たれた感情のこもらない手紙で死を知らされたのだった。
葬儀は今週の金曜日に執り行われるということだった。
アレンは手紙を見つめたまま言葉を失い、ただただ立ち尽くしていた。
「お母さん……どうされました?」
言ってカレンはアレンが持つ、手紙を横から覗き込み息を飲んだ。
「お父さんが……冗談ですよね……」
カレンは母の顔を覗き込むが、アレンは首をゆっくりと振って冗談ではないと言った。
「そんな……」
カレンは口を手のひらで覆って、糸が切れた人形のようにソファーに崩れた。
「二人ともどうしちゃったの……?」
我が子がアリシアの袖を引きながら、不思議そうに訊ねる。
アリシアはどう答えていいものかわからなかった。
「二人とも何で元気ないの?」
アリシアは我が子と目線が重なるようにしゃがみ込み、両肩に手を置いた。
「部屋に行きましょ。今は二人だけにしてあげるの」
「何で? 二人とも悲しんでるよ。慰めてあげなくていいの?」
アリシアは下唇を噛みしめた。
これだけお世話になっているのに、何もしてあげられない自分が不甲斐なくて、自分にイライラする。自分は本当に疫病神だ……。
自分がこの家に来なければ、アレンの夫は死ななかったかもしれない。因果関係がなかったとしても、アリシアはそう思わずにはいられなかった。きっと自分のせいなのだ、と。
アリシアたちが部屋に引っ込んでから、間もなく一階から壁を透けて泣き声が聞こえはじめた。
この世の悲しみを体現させたかのような、悲しみの叫び。
耳を覆っていても、頭の中から響いて来るような悲しい叫び。
「二人とも泣いてるよ? 何で、何で泣いてるの?」
「悲しいから泣いているのよ……」
「母さんも泣いてるよ? 母さんも悲しいの?」
アリシアは自分の頬に触れた。
確かに涙が出ていた。
「どうして、悲しいと泣くの?」
「人間は悲しいとき、辛いとき泣くものなのよ」
「ぼく泣かないよ。ぼく泣いたことないよ」
「いえ、あなたもきっと辛いとき悲しいとき泣きたくなるときが来る。そのときは泣けばいいの」
アリシアは腕を広げた。
「こっちに来て」
戸惑いながらも我が子はゆっくり歩み出した。
アリシアは目の前に来た我が子を優しく抱きしめて、「悲しいに理由なんてないの。あの人たちが悲しんでいる。私はそのことが悲しいの……」と言いながら頭をなでた。
*
「それじゃあ、あたしたち葬式に行ってくるから、家のことお願いね。明後日には帰ってくるから、お土産楽しみにしてて」
アレンは着丈にふるまっているが、心の奥底に堆積している悲しみを完全に隠しきることはできていなかった。アレンたちは夫の顔を最後まで見ることはなく、埋葬にだけ立ち会うこととなった。
「お気を付けて……」
黒いドレスに身を包んだ二人は、静かな微笑みを浮かべてとびらに消えた。
「お葬式ってなあに?」
「お葬式っていうのは亡くなった人を弔う儀式。今生きている人が、死んでしまった人に最期のお別れを言う儀式なの」
「二人はお葬式に行ったんだね」
「ええ。最期のお別れを言いに行ったのよ」
アリシアは二人が帰ってきたときどう出迎えればいいのか頭を悩ませたが、考えても仕方がないと開き直った。
家を任されたのだから、家事をしなければ。
アリシアは溜まっていた洗濯物を洗い、拭き掃除と掃き掃除をする。掃除はいつにもまして念入りに。すべての部屋の窓を、曇りの残らないように拭き、シーツは手で根気よく、真っ白になるまで洗った。
食在庫を調べ夕食の支度をはじめたころには夕方になっていた。家事をしているときには、何も考えなくていい。
辛いことも悲しいことも、何かに没頭している限り考えなくていいのだ。
何事もなく一日が過ぎた。
カレンとアレンがいない家はとても静かだった。
アリシアはもともとそれほどしゃべる方ではない。我が子も必要以上のことを話さない。言葉の発達が遅れているのでは、と一時は危惧していたことがあったが、そうではないとわかった。
洞察力や考える力はとても優れている。殆どしゃべろうとしないのは、言葉をまとめる能力が劣っているのではなく、ただ普通の子より無口と言うだけのこと。
「美味しい?」
アリシアは我が子が好きだと言ったハンバーグを作った。
トマトソースとバルサミコ酢、ワイン、野菜や肉でだしをとった市販のソースを混ぜて自家製のソースを作ってみた。
「おいしい」
我が子はフォークとナイフを器用に使って、ハンバーグを食べる。
アリシアは我が子が美味しそうに食べる姿を見ているだけで、悩みや不安が吹っ飛んだ。
「よかった。また、ハンバーグ作ってあげるから」
「うん」
その日はぐっすりと眠れた。
翌日になり、家事も昨日の内にやり終えてしまい、暇を持て余した。ソファーに座って、何も考えないように意識するがそれが余計に嫌な想像を掻き立てる。
何も考えないのは無理だとわかったので、帰ってきた二人のために自分に何ができるかを考えることにした。
思いつくアイデアは一つしかない。
二人が帰ってきたときに美味しい物を食べさせてあげることだ。そう思いアリシアは勇気を出して買い物に出かけることにした。もう半年、何事も起きていないのだ。
ほとぼりも覚めたころだろう。
アリシアはテイラー家でお世話になってから、出かけたことがなかった。近所の人たちと話をする機会があったが、それほど親しくしている訳でもない。
庭の手入れを手伝っているときなどに、近所の人に話しかけられて当たり障りのない話をする程度だった。近所の人たちには親戚ということにしてある。しばらくの間、お世話になると。
「ねえ。お買い物に行く?」
「母さん、お外出るの嫌いじゃなかった?」
「母さんは別に、お外出るの嫌いじゃないよ。それどころかお外は好き。ここ半年ほどお外に出ていなかったから、買い物に行くついでにお散歩して帰りましょ。ね」
アリシアの心境の変化に我が子は訝しむような視線を向けてきたが、すぐに気持ちを取り直して「行こ」とうなずいた。
「母さん本格的に外に出るの半年ぶりよ」
「ぼくはカレンとたまに出かけるから、町を案内してあげるよ。花壇が並ぶ通りとか、噴水がある広場とかあるんだよ」
我が子はアリシアの手を引いて、玄関に向かった。
「案内してくれるの、ありがとう。じゃあ、今日はリードしてもらおうかしら」
笑顔で言って、アリシアはラインからもらったお金を持ち、半年ぶりに我が子とのお出かけを楽しむことにした――。