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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file50 昔のこと、これからのこと

 新しい生活に慣れるまでそう時間はかからなかった。半月も過ぎるころには、テイラー家の生活スタイルにも慣れて、カレンやアレン、カレンの父親とも打ち解けることができた。


 三人とも親切で、身寄りのないアリシアたちによくしてくれた。

 だけど、よくしてもらえればよくしてもらうほど、恩返しができない歯がゆさで悔しくなる。


 使用人だと思って、色々な仕事を押し付けてくれればどれほど気持ちが楽になるだろう。


 アリシアがテイラー家にお世話になりはじめて、一週間目のことだ。アリシアは毎月家賃としてお金を払わせて欲しい、と頼んだことがある。


 だが、アレンは「そんなの気にしなくていいの。どうせ部屋が余ってるんだし、誰かに使ってもらった方がいいでしょ。それに旦那、結構お給料もらってるから、お金には困っていないの」とアリシアの頼みを聞き入れてくれなかった。


「では、食費だけでも」


「三人分作るのも、五人分作るのも殆ど変わらないわよ」


 ああ、本当にいい人たちだ……。アリシアは自分にできる範囲のことで、精いっぱい恩返しをしようとした。


 掃除、洗濯、庭の手入れ、調理。

 掃除と洗濯はどうにか成ったとしても、庭の手入れと調理は熟練の知識と技術が必要だった。庭の花一つ一つ手入れの仕方が違い、水やりくらいしかすることがなかったし、調理はカレンの方が上手く、足下にも及ばない。


 テイラー家にお世話になりはじめてひと月もすると、我が子が「外で遊びたい」と訴えるようになった。


 外に連れ出してやりたいが、むやみやたらに外に出ることはできなかったのだ。日が落ちてからなら出られなくはないが、明るい内にはなるべく避けたい。


 男が自分たちのことを捜しているだろうし、姿を目撃されでもしたらこの幸せな生活が終わってしまう。


 何よりも、これほどまでにお世話になった人達を、危険な目に遭わせたくなかった。


 あの男は容赦がない。自分たちを助けていたことが知れれば、テイラー家の人々は破滅させられる……。


 以前近所に住んでいた四十代くらいの夫婦が、自分たち親子のことを助けてくれようとしていたことがあった。


 足を引きずるようにして歩いていたアリシアことを気にして、探りを入れたのだ。


 そして、男がアリシアに暴力を振るっていことを突き止めた。

 その夫婦はアリシアに接触して、助けようとしてくれた。


「あなた旦那に暴力を振るわれているんでしょ……。逃げなきゃ駄目よ……。このままじゃ、殺されてしまうわよ……」


 そのとき我が子は三歳ほどだった。

 男は家の中で泥酔して眠っていた。

 逃げ出そうと思えば、逃げ出せただろうけれど、一種の洗脳状態にあったアリシアの頭には“逃げる„という概念を抱くことすらなかった。


 だから、夫婦の提案にアリシアはうなずくことができなかった。

 それからでも、夫婦は何度もアリシアを連れ出そうとしたが、アリシアは心神喪失をしており、家を離れようとしない。


 そしてある日、とうとう痺れを切らした夫婦は、魔の住まう男の家に乗り込み、言ったのだ……。


「あなた、奥さんに手を上げていますよねッ」


 そう言ったのが悪かった。

 いい人ほど早死にをするとは本当で、いい人は他人の不幸も背負い込んでしまうのだ。


 一触即発の状況だったが、そのときは何事もなくすんだ、と思った。それから、数日後。近所に住んでいたその夫婦は突然消えてしまった。


 ほっておいてくれればよかったのに、アリシアはその夫婦を哀れむでもなく、悼むでもなく、自分を助けてくれようとした夫婦に感謝の念を感じることなく、そう思ってしまった。


 あれから四年近くが過ぎ、洗脳から解けた今は違う。

 このテイラー家の人たちを、危険な目に遭わせる訳にはいかない。

 自分たち親子をかくまっているということは、爆弾をそばに置いていることと同意。


 男に見つかる前に、ここから立ち去らなければならないが、出たとしても行くところがない。


 これから先、自分たちの在り方を考えなければならない。

 それまでは、できるだけ目立つ行為を避けなければ。


 だから、外に出ることをアリシアは避けていた。けれど、いつまでも家に閉じ困っている訳にはいかなかった。お金を溜めて自立できるように頑張らなければならない。


 もう少し事が収まったら、アリシアはどこかで働こうと思っていた。それまでの辛抱だ。だが、親の心子知らずで、我が子はアリシアの気持ちをわかってくれない。


 ここ一か月、外に出ていないのだ。ずっと、家の中を行ったり来たり、遊び盛りの子供には酷な仕打ちだった……。


「私が散歩に連れて行きますよ」


 困り果てたアリシアにカレンが救いの手を差し出してくれた。


「少し町の中をこの子と散歩してきます」


 アリシアは一瞬迷ったが、決めた。


「いいの……?」


「はい、気分転換に散歩に行こうと思っていたところでしたから、大丈夫です」


「じゃあ、お願いしてもいい」


 アリシアは我が子の肩に両手を乗せて、「お姉さんの言うことをよく聞くのよ。駄々をこねちゃ駄目だからね」と言い聞かせた。


「わかってるよ」


 我が子は体をうずうずとさせて、うなずいた。


「早く行こう」


 言ってカレンの手を引いた。


「それじゃあ、行ってきます。夕方までには帰ってきます」


 カレンは我が子に手を引かれる格好で、外に飛び出していった。


「あれ、二人は出かけちゃったの? せっかくお茶の用意してたのに」


 銀のトレイを持ったアレンがリビングからあらわれたのは、二人が出かけた直後のことだった。


「まあいいわ。あの子たちの分も二人で食べちゃいましょ」


 アリシアの前にクッキーとマカロンが山のように盛られた皿と、紅茶を置き、お茶目に言いのけた。二人で食べると言っても、さすがにこの量は食べられそうにないな、と思うアリシアなのであった――。

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