file46 いつか必ず、恩返しを
「そうと決まったら、早速手紙を書いてみるわ。返事が来るまで、二日か三日かかると思うから、気負わず自分の家だと思って休んでいらっしゃい」
アリシアは溢れそうになる涙を堪えていたが、とうとう堪えきれず泣いた。
今まで男の暴力で精神を限界まで追い詰められ、張っていたアリシアの心の線は、老夫婦のやさしい言葉で緩み、泣いていた。
顔を手の平で覆い隠し、背中を丸めて泣き崩れた。
老女は泣き崩れるアリシアを優しく抱きしめて、「大丈夫。大丈夫」とぐずる赤ちゃんをあやすように優しく、優しく泣き止むまで付き添った。
十分もしきりに泣き続けたころには涙も底を尽き、アリシアは目を腫らせて老女に詫びた。
「いいんだよ。泣き泣いときは、泣けばいい。今までため込んでいた辛い想いを吐き出せばいい」
老女の声は母の声と酷似しており、まるで母が本当に生き返ったかのような錯覚を覚えた。
「明日の朝一番に郵便局に行って、手紙を出すから。今日はあの子と、ゆっくりお休み。そこの部屋を使っていいから」
「だけど……お二人の寝室だったのでは……」
「私たちはソファーで眠るから。気にしなくて大丈夫さ」
「いえ。そんなわけにはいきません。私たちがソファーで眠ります」
アリシアが引かないとわかった老女は、「わかった。じゃあ、私たち夫婦二人は同じベッドで眠る。あんたも、子供と同じベッドで眠りな。そうすれば、みんなベッドで眠れる」と提案した。
「はい。それでいいです」
「私は手紙を書いてから眠るから、先に寝てらっしゃい」
アリシアはお腹がいっぱいになり、うつらうつらしていた我が子の手をとって、「何から、何までありがとうございます」ともう一度深く頭を下げた。
「いいんだよ。困っているときはお互い様なんだから。おやすみ」
「おやすみなさい」
アリシアは我が子が寝付いたことを確認してから、自分も眠りに落ちた。一日眠っていたが、泣き疲れたからなのか、疲れがそれだけたまっていたからなのか、すぐに寝付くことができた。
翌朝、アリシアは今までの出来事が夢ではなかったのだと、驚いた。自分がこんなに恵まれるなんて、信じられなかったのだ。
となりで眠る我が子をベッドに残して、アリシアはリビングルームに出た。
「おはよう。よく眠れた?」
老女は朝食の準備をしながら、アリシアに訊ねた。
「はい。とても、ぐっすり」
「それは良かった。もうすぐ、朝食ができるから、ちょっと待っててね」
「あ、私に何かできることはないでしょうか……」
老女はえくぼを作って、「気を遣わなくてもいいの。あなたは休んでくれていればね」と水洗いを終えた生野菜を皿に盛りつけた。
「しかし……」
「いいの」
アリシアはおとなしく木組みの椅子に座った。
「女房は家事が好きなんだよ。わしが手伝ってやろうとしても、やらしてくれない。だから、気を使うことはないよ」
窓辺の椅子に座り新聞を読んでいた、老人が文面を追いながら言った。
「その代わり、あんたの話を聞かせてくれると、ありがたいんだが」
老人は新聞をたたんで、テーブルを挟んだアリシアの向かい側に座った。
「私の話ですか……話すことなど……」
「聞きそびれていたが、あんた名前は何て言うんだ?」
「アリシアです。アリシア・ケイト」
「アリシアか素敵な名前だ。子どもは?」
老人の問いにアリシアは答えた。
老人はいい名前だと言った。
「名乗り忘れていたが、わしはヴィッツ・テイラー。で、妻はライン」
「ヴィッツさんですね。この度は本当に助けてくださり、ありがとうございました」
「ああ。気に障ることを訊ねるが、良いかね?」
「はい……」
「話は昨日聞かせてもらったから、アリシアがどうして逃げてきたかはわしも知っている。だが、どうして、そこまで暴力を振るわれるまでに、警察に助けを求めなかったんだい?」
「怖かったんです……助けを求めて、あの人を怒らせることが……」
「警察はその男を捕まえてくれないのか?」
ヴィッツは不思議でしょうがない、言いたげに訊ねた。
この人たちにはできるだけ、隠し事をしたくはなかった。
きっと打ち明ければ、この人たちの態度が変わるかもしれない。けれど、隠しておくわけにはいかない。
「あの人は――」
マフィアの一員なのだと告げた。
だから、警察もむやみやたらに動けない。
近所の人も助けてくれない。
「だからって……。れっきとした犯罪を犯しておいて、裁かれないなんてことが……」
警察は家庭内暴力くらいでは動いてくれなかった。もし、自分が殺されるようなことがあれば、我が子だけでも保護してくれるかもしれないが……。
男の属しているファミリーはそれだけ、影響力があるのだ。
「黙っていて、申し訳ありません……。今すぐに出ていきます……」
アリシアは今すぐにでも我が子を連れて、出ていくつもりだった。自分がここにいるだけで、この人たちにも危険が及ぶかもしれないのだから。
「いや。出ていくことはない。そうと知っちゃあ余計にほっておけないだろ」
「そうですよ」
二人の話にラインが割って入った。ラインはテーブルの上にパンと今さっき洗っていたサラダ。ベーコンをカリカリに焼いた目玉焼きとコーンスープを次々と並べていった。
「この人の言う通り、余計にほっておけないわ」
すべての料理を並び終えて、ラインは手を合わせた。
「それじゃあ、朝食にしましょうか。あの子を起こしていらっしゃい」
アリシアがマフィアと繋がっていると知っても、老夫婦二人は怯えた様子を見せなかった。
「はい」
アリシアは寝室でまだ眠っていた我が子を起こして、朝食をいただいた。どれもこれも、今までに食べたことがないくらいに、とっても美味しかった。
老夫婦の子供だという人から手紙が返ってくるまで、アリシアはお世話になった。
ラインは何もしなくていいと言ったが、さすがに気が引けてしまうのでアリシアは家事の手伝いをさせてもらうことになった。
何度も何度も頼んでやっと了承してもらえたのだ。食事や洗濯、掃除などの家事をこなし、二日が過ぎた。
二日後の昼過ぎ、届いた手紙には『わかりました。あたしがその親子をかくまいましょう。いつでも来てください。待っています』と書かれていた。
「いつでも来てくれと言っているわ。膳は急げよね。今日の夜、出発しましょう」
ラインはいうなり、部屋の隅にポツンと置かれていたチェストをひっくり返して、何かを取り出した。
「これ。少ないけど、持って行きなさい」
言って、ラインは十万ユーロをアリシアに渡した。
「え、いえ。もらえません……」
「遠慮することないの。家事を手伝ってもらったし」
「それにしても、多すぎます……」
「気持ちよ。子供に何か買ってあげなさい」
アリシアは何度も押し返そうとしたが、ラインは一向に受け取ろうとしなかった。
「そう言っていることだから、もらっておきなさい。気にすることはない、貯金なら持っている。それっぽっちはした金だ」
「そうよ。それっぽっちはした金だから、もらってちょうだい」
何から何まで、なんとお礼を言えばいいだろう……。もし恩を返す力が自分にあれば、この感謝の気持ちを返したい。
「ありがとうございます……」
「あと、このカバンに着替えを入れているから、おばさん趣味で悪いんだけどね」
ラインは麻のパンパンに膨れたカバンをアリシアに渡した。
「いえ。大変助かります。着替えを持たずに逃げてきたもので」
もし男に怯えずに生きられるようになれば、必ず恩返しをしに来よう、アリシアは強く決意した。いつか必ず、恩返しをしたい……。
そして、日が暮れ人気がなくなった時刻に、親子を乗せた馬車はセンティアの町へと出発した――。