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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file45 神の恩恵

 意識の遠くで、パチパチと薪が弾ける音が聴こえた。炎が作り出す温かな風が頬に当たり、アリシアはゆっくりと目を覚ました。


 目に飛び込んできたのは、天井に投影された暖炉の火影。うつらうつらする頭でしばらく、無造作に揺れる火影を眺めていた。


 ここはどこだ……? 知らない天井。知らないベッド……。暖炉の温かな風が、霧が張ったように不明瞭だった頭脳を呼び覚ました。


 そうだ……! 私は……男から逃げてきたのだ……。バッと起き上がろうにも、体中が鉛のように重く起き上がることができなかった。


 我が子は……我が子はどこだろう……。

 そこでやっと、我が子の姿がないことに気付いた。


 そのとき、「あなた、起きましたよ」という亡き母に似た声がどこからともなく聞こえてきた。


 どうして母の声がするのだろう……? 幻聴なのだろうか、と疑いかけたとき、目の前に炎の灯りを背にした人影が立った。


「どうですか? 気分は?」


 アリシアは目を細めて、人影を目視した。

 亡き母の声によく似ていたが、今聴こえる声の方が年老いている。

 きっと、母が高齢まで生きていればこの声と同じ温かみのある声になっていたのだろう、と思う。


「こ、子供は……」


 空回りする舌を懸命に動かして、アリシアは自分のことよりも、まず我が子の心配を先にした。


「あなたと一緒にいた子供ですか。大丈夫、今ご飯を食べています」


 アリシアの警戒が少し緩んだ。

 この老夫婦らしき人たちは悪い人ではないようだ。


「私はどうして、ここに……?」


「わしが馬車で草原地帯を通りかかったとき、あんた道端で倒れたんだよ。フラフラしてたから、荷台に乗せてやろうと思って、あんたに追いついたとき、つまずいてバタンさ。顔から倒れるんで、ビックリしたよ。呼んでも起きないから、連れて帰ってきたんだ」


 老人が言うと、間髪を容れずに老女が「それで、昨日からずっと眠っていたんですよ。顔を強く打たれたようだから、このまま目覚めないんじゃないかと心配で……」と顔を曇らせた。


 昨日から、眠っていた……? つまり、一日、自分は眠っていたのだ。部屋の暗さを考えて、今は夜ということになる。男はもう自分たちを捜しまわっている……。


 アリシアの顔が引きつっていることを気にかけて、老女は訊ねた。


「顔、まだ痛む?」


「顔……?」


 そう言えばジンジン、ヒリヒリとする感覚がある。

 だが、強い痛みではない。擦り傷の痛みだ。


「大丈夫です」


「手当はしといたから。きっと跡は残らないですよ」


「ありがとうございます」


 アリシアはやっと上半身を起こして、頭を下げた。


「いいんですよ」


 老女は謙遜しながら、ベッドサイドに立って「立ち上がれますか?」とアリシアの手を取ろうとした。


「はい」


 差し出された手を握って、アリシアは立ち上がり、寝室を抜けてとなりの部屋のとびらをくぐった。


 そこには椅子にちょこんと座り、食事をとっている我が子の姿があった。ああ、無事だったッ。


 アリシアは拙い足取りで、我が子の下に駆け寄ってその体を抱きしめた。幽霊でないと確認するように。突然背後から抱きしめられた我が子は、体をびくつかせて振り返った。


「母さんか。ビックリさせないでよ」


 体をもぞつかせて、逃れようとする我が子をアリシアは放さない。


「あなたも、食事をとりなさい。体が弱っているわ」


 言って老女はキッチンから温かな具沢山スープとブレット、チーズ、豆とサニーレタスなどを混ぜたサラダを用意してくれた。


「私は……」


「遠慮なんてしないでください」


 はじめは抵抗感があったが、アリシアは老女の言葉に甘えて食事をいただいた。胃袋に食料が入ると、フワフワと宙を漂っている感じだった体は、しっかりと地に足をつけた。


 空腹のお腹に、急激に食料を詰め込んだことでアリシアは軽い吐き気を催したが、何とか堪えた。


 摂取した栄養が思考を活性化させて、この先のことを考える力を与えたが、同時に不安感と強い恐怖感がアリシアを襲った。


 男はもうすでに自分たちを捜しまわっているはずだ。

 誰かに自分たちを捜すように依頼しているかもしれない。

 一日眠っていたのだ、もうすぐそこまで迫っているかも……。


「落ち着いたかしら?」


 老女はアリシアの向かい側に座って、柔らかな微笑みを浮かべた。


「え、はい……」


 柔らかだった微笑みを少し崩して、「訊きたいのだけど、どうしてあんな朝早くに草原地帯を歩いていたの?」と老女は訊ねた。


 アリシアは答えることができない。

 言い渋るアリシアに老女は更なる質問をぶつける。


「主人が言うには、まるで誰かから逃げているようだったって。もしかして、誰かに追われているの?」


 汗がこめかみを流れ、アリシアは懸命に考えた。

 この老夫婦は悪い人ではなさそうだが、もし追われていることを知らせれば、この老夫婦にも被害が及ぶかもしれない。そう考えると黙っておく方が得策のように思えた。


「長年の勘で、あなたは悪い人間には見えない。きっと、追われているとしても何か理由があるのね。わたしたちはあなたの味方だから、話してみなさい」


 老女は強い口調で言うのだが、高圧的ではなく、不思議とどんな問題も包み込んでくれそうな寛大さがうかがえた。


「実は……」


 アリシアは事の顛末をすべて、話した。

 母親の薬代を男に援助してもらっていたこと。

 母が亡くなってから男が急変し、暴力を振るうようになったこと。

 子供にも手を上げるようになり、逃げ出したこと。


 話すのは辛かったが、膿を出すかのように、心に溜まっていたヘドロを出し切ることで、少しだが心が軽くなった気がした。


「そうだったの。辛かったわね」


 老夫婦はアリシアの話を涙ながらに聞いてくれた。


「心配しなくて大丈夫。私たちがかくまってあげる。あなたがよければ、この家にいつまでもいてくれていいの」


 老女の言葉は本当に嬉しかった、がそこまで世話になることはできなかった。自分たちがここに滞在すれば、迷惑をかけてしまう。


「ここは、どこでしょうか?」


 老女は町の名前を答えた。

 アリシアが住んでいた町のとなり町だった。


「あなた、となり町に住んでいたの?」


「はい……」


 お世話になるにしても、あまりに男から近すぎた。

 

「それじゃあ。私の知り合いを紹介してあげる。その人はここから三十キロほど離れた、センティアっていう町に住んでいるの。私が頼めば、あなたを置いてくれると思う」


「だけど……子供ずれですし……急にそんなこと言ったら……ご迷惑になります……」


「そんなことない。その人のことは私よぉ~く知ってるの。困っている人をほっておけない子なの。迷惑なんて思わない子だわ」


 老女はアリシアの両手をとって、「彼女は子供が好きだから、その子同伴でも迷惑なんて思わない」とアリシアの迷いを拭い去った。


「だって、その子は私の子供だもの。あの子の性格は私が一番よく知っているわ。だから大丈夫」


 親戚のいないアリシアには頼るあてもなかった。だから、老女の言葉に甘えようとしている自分がいることに、アリシアは嫌悪感を覚えた。


 だけど、本当にこの老女が心の底から、自分たち親子のことを想って言ってくれているのなら……言葉に甘えていいのなら……甘えさせてください神様――。

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