file24 『怪物の正体』
私は森に逃げた。暗い、暗い、森の中。
月の光が木の葉のすき間から、差し込み空からふる星々のように、限りなく導く。
私は大地に点々と光る星を頼りに、森を進んだ。
そのとき、足に痛みが走る。靴を履いていない足に、石が刺さった。大したことはない。
再び走る。これから私は、どうすればいいのだろうか。どこに行けばいいのだろうか。
あてもない、暗黒を私は走った。朝日が差し、森中を照らした。
私は走ることにも疲れ、大木の根元に腰かけた。手には固まった血で覆われた、ナイフが握られている。私にはこのナイフしかない。何もない。これから、一人で生きていかなければならない。
私には何もない。頼れるものは何もない。私には何もない。頼れるのは自分だけ。
私には何もない。そこで私は眠りに落ちた。
女は訝しむような目で、二人を見てから答えた。
「山狩りを始めたんだよ」
そして一瞬考えるふうで、「森狩りの方が正しいかね」と、いい直した。
山狩り? いったい誰が。そんなの、決まっているではないか。
サエモンたちだ。あれだけ違うといったではないか……バートンがいくらいったところで、話を素直に信じてくれる人間ではないことなど分かり切っていたではないか。
山狩りが本当なら、再び狼が殺されてしまう可能性がある。そうなれば、イスカが悲しんでしまう。
子供との約束を破ることほど心苦しいことはない。
狼だけには手を出していないことをバートン心より祈った。
「どうして山狩りを……?」
「そんなことあたしに聞かれても知らないわよ。昨日警察の人たちが、『明日、森を捜索するから森に詳しい人を紹介してほしい』って訊いてきたから、キプスさんを紹介したそうですよ」
確かに、森の動物たちを疑う気持ちは分かる。
バートンも百パーセント疑っていない、といったら嘘になるが。
しかし、あの森には銀狼一家の縄張りだということだ。
集団で行動する狼に勝てる獣などまずいない。つまりあの森には人間を襲うような危険な動物は生息していない、とバートン考えている。
狼が犯人だと疑うよりは人間が犯人だと疑った方がまだ、真実味がある。それに、疑わしい人物もいる……。
「いつ、森に入ったんですか?」
「今さっきだよ。いま送り出したんだから」
いまなら、まだ止められるかもしれない。バートンは女に、「教えていただき、ありがとうございました」と、頭を下げて、キクマにいった。
「僕たちも後を追いましょう。いまらな止められるかも知れない」
キクマはめんどくせーな、というような渋い顔をして見せた。
キプスが案内役をするのであれば以前森に入ったあの道から森に入った、可能性が高い。
あの道ならバートンも憶えている。
憶えているというよりは一本道なので忘れようがない。
道さへ踏み外さなければ、遭難する心配もない、と思う。
今なら追いつける自信がある。
少しの時間も無駄にはできない、そう思いバートンは走りだす。キクマはいやいやながらも、付いてきてくれている。この瞬間ほど上司を尊敬したことはない。
この事件が解決したら、キクマになにかおごろうではないか、と考えるバートンであった。
*
鬱蒼と樹々で茂った林道は、踏みに、踏まれて、道ができていた。
これなら、道に迷う心配もまずあるまい。この、道さへ辿っていけば、追いつくことができるのだから。バートンの予想は的中した。
この道から、森の中に入ったのだ。
林道は風が吹かない。風が吹かないから、苔や草木の匂いが森中を漂ったまま消えることはない。自然の香りは昂った心を癒す力がある、とバートンは思っている。
心を癒す不思議な力があるのだから、異界につづく道があったとしてもおかしくはない。
少しでも、この道から外れたら、もう、二度と現世には戻れない気がする。と、バートンは歩きずらい、凸凹道を歩きながら思う。
異界に迷い込まないためにも、この道を外れる訳にはいかないのだ。
「もっと急ぎましょう」
キクマのペースに合わせていると、サエモンの集団には追いつけそうにない。バートンはキクマを急かした。朝露で湿った土は踏みしめるたびに、ぎゅにゅ、ぎゅにゅと足跡が残る。
消えかかっているが、サエモンたちの足跡も見て取れる。消えかけている、ということはこの道を通ってから、かなりの時間が立っているということになる。もっと、急がなければ。
二人は急いだ。地面に足を取られながら必死に走った。足跡が段々と形をハッキリとさせてきた。
確実に近づいていることが分かる。
もう、近い、次期に追いつく。バートンは焦った。銀狼一家だけは見逃してもらわなければ。あの狼たちは犯人ではないのだから。
そのときだった。どれだけ離れていても、響き渡る銃声が聞こえたのは。遅かった……あと数十分ほど遅かった。
バートンは駆けた。キクマも重い足を引きずるように駆けだした。何度も転びそうになり、実際に数回転んだ。
ブラックブラウン色のスーツは泥と草の汁で染められ、まだら模様になってしまった。
起き上がろうとして、地面に手を付けると、ベトリと滑り、腕を捻りそうになる。
すると、樹々のすき間から、人影がチラチラと見え始めた。
人影が見える方角から、大きな怒鳴り声が聞こえてくる。聞き取れない、なんていっているんだ。森に反響し、原型をとどめなくなって意味をなさない、かつて声だった音がバートンの耳に届いた。
「仕留めた! 仕留めたぞォー!」
今度はハッキリと聞こえた。空気を震わし、確かにあの人物の声がバートンの耳に届いた。
あの年からは考えられない張りのある声は、キプスの声だ。声が裏返っているせいか、以前より若く聞こえた。
「仕留めた! 仕留めたぞ!」
バートンが声の方に駆け付けると、警官たちは原始人とでも遭遇したかのような、何とも言えない顔を見せた。
警察の一人が、言葉の通じる人間だと、バートンたちを認識すると、語りかける。
「なんなんですか、あなた達は!」
バートンは警官の問いに答えず、キプスのいる場所に駆け寄る。
そこには、いけ好かないサエモンがいた。キクマとバートンを見つけると、サエモンは高い鼻に皺を寄せ、キクマを睨んだ。サエモンとにらみ合っている暇などない。
バートンは目の前に見える異質な何かに視線を向ける。
それは熊のような毛皮に覆われた獣だった。熊にしては少し小さく、狼にしては大きすぎ、鹿にしては角がなく、猪にしては痩せぎすで、当てはまる動物をバートンは知らない。
例えるなら、キメラとでもいうのだろうか。
前身は狼によく似ているが、背中には斑点模様が等間隔に並び、胴は牛のように太かった。前後ろ脚は短く、ずんぐりむっくりな不自然な全体像。
まるで、複数の動物をつなぎ合わせたような生物。
一言でいえば不気味。まさにキメラだった。
サエモンたちがキメラを手探りで、調べ始めた。
硬い毛質が、針のようで痛そうだ。すると、サエモンはあるものを見つけた。
針と糸で縫い合わせたような、つなぎ目。
そうだ、やはり、そうだ。このキメラの中には人間が入っている。犯人は人間だと薄々思い始めていたが、実物を見ると、とんでもない恐怖が襲って来た。
そう、この怪物事件の犯人は人間だったのだ。
獣の皮を被った、人間。半獣半人のキメラだったのだ――。




