file44 幾線の星はすべて昔の光
幼き我が子を連れたアリシアは夜、男が寝静まったころに逃げ出した。とにかく、少しでも早く男から距離を取らなければならない。
少しでも遠くへ、少しでも早く、少しでも離れなければ。
男の手が届かないどこか、遠くへ。
アリシアは寝ぼけ眼の我が子の手を引いて、夜の町を足早に駆け抜けた。月は隠れ、ガス灯の灯りだけが唯一道しるべとなる。
「もう少し、早く歩いて」
じれったそうに、アリシアは我が子を急かした。
今こうして歩いているさなかにも、男が背後から迫っているのではないだろうか、と気が気ではなかった。
眠たそうに眼をこすりながら、赤ん坊がぐずるときのように我が子は不機嫌そうだった。
夜風は肌寒く、羽織るものを持って出るんだったと後悔したが、後戻りはできない。汽車は明日の朝まで出ない、それまでどこで過ごせばいいだろう。
見つからない場所、誰にも見つからない場所……。
もし誰かに見つかってしまったら、男に居場所を告げられるかもしれない。そのようなことになれば、終わりだった……。
アリシアは人目がないことを慎重に確認しながら、ぐずる我が子の手を懸命に引いた。
光の差さない建物が作る闇に姿を隠しながら、あてもなく彷徨い歩いた。この町から出なければ、アリシアの頭はそのことでいっぱいになっていた。
「母さん……。痛い……」
一つのことで頭がいっぱいになっていて、我が子の手を想像よりも強く握ってしまっていたことに気付いた。
「あ、ごめんなさい……」
「別に謝らなくていいよ。謝ってばかりの母さん嫌いだよ」
「そうね。ごめんなさい……」
「ほら、また」
いつの間にか謝ることが癖になっていて、とっさに謝罪の言葉が出てしまうようになっていた。
「母さんは悪いことをしていないんだから、そうペコペコ謝る必要なんてないんだよ」
「そうよね。ありがとう」
アリシアは足を止めて、我が子の目線と同じ高さになるようにしゃがみ込み、強く抱きしめた。可愛い私の子――。何があろうと、この子だけは絶対に守ってみせる。何があろうと――。
「苦しいよ……」
「あ、ごめんなさい……」
と、また謝ってしまった。
我が子は呆れた顔をした。
「先を急ぎましょうか」
「どこに行くの?」
「どこか行きたいところでもある?」
我が子は可愛らしく、首を傾けて頭を捻るポーズをしてみせた。
ああ、愛おしい――。この子には幸せになって欲しい――アリシアはそう思わずにはいられない。
「母さんが一緒ならどこでもいいよ」
「私もあなたが一緒なら、どこでだって生きていける」
汽車が動き出す朝まで、待っていられなかった。
アリシアたちは男から少しでも距離を稼ごうと、町道をひた歩き、町を抜けた。
町の外に街灯などあるはずもなく、辺りは本当の暗黒だった。唯一道しるべのように淡く輝く星々が、天の道を標すのみ。
「寒くない?」
「大丈夫」
そう強がっているが、つないでいる手が芯まで冷たくなっていた。
しかし、羽織るものもなく、どうしてやることもできない。
アリシアは気持ち程度でも、我が子の手をさすって温めた。
幼い子供を連れて、どれだけ歩けるだろうか。
となり町との距離は何十キロもある。幼い子供を連れて、一晩でそれだけの距離を歩くなど不可能だ。それに道も悪く、方角だって定かではない。
「疲れてない?」
「ちょっと、疲れた」
「おぶってあげようか?」
「いい」
アリシアは拒否した我が子を、強引に引き寄せて、「無理をしないで、足フラフラしてる。ほら」と片膝をついて、後ろ手に背中を出した。
我が子は躊躇していたが、疲れには敵わずアリシアの背中におぶさった。
「重くない……?」
「大丈夫。とっても軽いわ」
強がっているのではなく、本当に軽かった。
この子は運動神経がいいのか知れないが、おぶさり方がとても上手い。体重を分散させる体重のかけ方を知っているのだ。
「母さん」
「なあに」
「星が綺麗だよ」
アリシアは上空を見上げて、「本当ね」と感銘のため息とも取れる返事で答えた。
「星座ってここからでも見えるのかな?」
「星座はどこからだって見えるわ。だけど、私星座のことなんて全然知らないから、教えてあげられないの」
「わからないなら、好きに作ればいいんだよ。あの星とあの星をつなげると、パンみたいな星座になるし、あの一番明るい星と、二番目に明るい星、それと周辺の星をつなげてみると、猫みたいな星座ができるよ」
我が子が言う星がどの星を指しているのか、まったくわからなかったが、アリシアは「本当ね。そう見える」とうなずいてみせた。
嘘などついていない、本当にどの星をつなげようとも、猫のような星座に見えたり、パンのような星座に見えるのだから。
アリシアたちは一晩中星空を見上げて、あの星とあの星をつなげると何に見える、という話をした。仕舞に我が子は眠ってしまい、アリシアのうなじに規則正しい寝息がかかる。
一晩中ぶっとうしで歩き続けて、とうとうアリシアも限界をきたした。体に力が入らず、危うく我が子を落としそうになったのだ。
何とか踏みとどまったが、すでに体力も精神力も限界をきたし、これ以上歩くことは無理だと悟った。
どこかで休まなければならないが、この開けた草原地帯の道には身を隠せる物陰などあるはずもない。もし、男が馬でも借りて追ってくれば、すぐに追いつかれ見つかってしまうだろう。
男はいつも昼過ぎまで眠っているが、もう日が昇っている。
もしかしたら、自分たちがいなくなったことに気付いているかもしれない。だとすれば、急がなければ……だが、町まであとどれほどの距離があるのだろうか。
見渡す限り開けた草原地帯で、町らしき影は見えなかった。
休んでいる暇はないのだ。どれだけ辛かろうと、今を乗り越えればいつだって休むことができる。だから、今だけは、最後の力を振り絞ってでも歩かなければならない。
アリシアは力を振り絞りながら、一時間半以上を歩いた。
背中で我が子の寝息を聞きながら、力を振り絞る。
男は起きただろうか……。
疲労で頭は思考力を持たないはずなのに、男が追ってくるという恐怖だけがすべてを蹂躙している。
捕まったら、殺されるだろう。
我が子の人生はこれからなのだ。自分だけなら、殺されても構わない。だが、この子だけは、この子だけは見逃してほしい……。そこまで考えて、自分は何を考えているのだ、と頭を振る。
まだ、捕まると決まったわけではないのだ。捕まったわけでもないのに、どうして弱気になっているのだろう。つくづく自分は、洗脳されているのかもしれないと思う。
そのときだった――。背後から馬が蹄を打つ音、車輪が悪路をガタガタと進んで来る音が聴こえた気がした……。
気のせいだ……。恐怖から来る幻聴だ、と自分を落ち着かせようとするが、その音は確実に聴こえてきて、近づいて来るとわかった。
男がもう追いついてきたッ……! 速すぎる。
まだ日が明けて間もない。
アリシアは必死に走った。馬車の音から逃げるように……。だが、人間の足で馬車を巻けるはずがなかった。それに疲れ切った女の足で、背中には幼い子供も背負っている。
馬車の音はすぐそこまで迫っていた。
無我夢中でアリシアは走る。だが、疲れ切り、感覚を失った足が必然的にもつれ、派手に顔から転んだ。顔をかばうことはできたが、そうすれば我が子を投げ出すことになる。
だから、顔から倒れた。
馬車の音がすぐ背後で、止まった。逃げようにも、もう動けない。後ろ手に我が子を強く抱きしめて、アリシアは深い眠りに落ちた――。