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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file43 神の皮をかぶった悪魔の施し

「アリシアが十二歳のとき、父親が急性心不全で亡くなったのだそうです。一家の大黒柱がいなくなり、アリシアとアリシアの母は途方に暮れました。

 それでも生きている者は、生き続けなければなりません。アリシアたちは父親の分も畑を作り、野菜を売り、身をすりつぶす思いで働き続けました」


 そう語る矯正長の言葉は、赤の他人の昔話を話すそれではなかった。もっと特別な何か、それはまるで好きな人の昔話を語る声音にも似ている。


「それから、五年ほど過ぎたころ、不運は続くもので、無理をし過ぎてしまった母親は軽い風邪をこじらせてしまい、肺炎になってしまいました。

 安静にしていれば、悪化せずに済んだのでしょうけど、肺炎になってからでもアリシアを少しでも学校に通わせるために、無理をして働いたのが原因でとうとう寝たきりになってしまったのです……」


 何と言葉をかけていいのかわからなかった。が、この話は矯正長の過去ではなく、アリシアという女性の過去であることを思い出す。


「アリシアは十七でした。アリシアはそれから学校も中退し、母の看病と農作業に追われる日々を送ります。母親は治るどころか、悪くなる一方で稼いだお金も、薬代に消えて行く。母の看病と仕事に追われる日々が、二年続いたある日、アリシアの下にある男が現れたと言います」


 不穏な空気がした。

 落ちるところまで落ちれば、不幸が続けば幸福が訪れるなど楽観的な考えなのだ。落ちるところまで落ちても、更に蟻地獄のように底はなし、不幸が続けば幸福が訪れるなんて、戯言だ。


 神が試練を与えるかのように、不幸は続く。


「その男は『母親の治療費を俺がみる』と言ったそうです。彼女は神の施しだと、一時は思っていたそうです……。ですが、それは神の施しなどではなく、悪魔の施しだったのです。男はこう言いました。『その代わり条件がある』」


 今わかった、話に現れた男こそが、殺された旦那に間違いないと。


「その男が、殺されたという旦那ですか?」


 バートンが訊ねると、矯正長ゆっくりとうなずいた。


「男は『母親の治療費を出してやる代わりに、俺の女になれ』と言ったのです。アリシアはそれを了承しました。了承するしかなかった……。好きでもない男の女になるなど、屈辱以外の何物でもないでしょう」


 矯正長は下唇を噛みしめて、屈辱の代弁者の如く語り続ける。


「アリシアは男からもらった金を母親の治療費に当て、働いて稼いだお金を食費に当てたそうです。そのことは母親には言わなかった、と彼女は言っていました。もし、母親が知ったら怒るよりも、悲しんでしまう、と。

 母親を助けるためだとは言え、好きでもない男に抱かれるのは、死ぬ以上に辛いことだったと思います」


 話の顛末を知っているからこそ、なお救われないと思った。

 

「いくら、治療費がいるからと言って、そんな男に面倒を見てもらうなど……もし、その場に私がいれば……どうにかしてやれたかもしれない……」


「矯正長殿はアリシアさんが好きだったのですか?」


 バートンは言ってしまってから、野暮な質問だったと後悔した。


「そうかもしれません。彼女の話を聞くうちに、そのような感情が芽生えていたことは事実です」


「アリシアさんの母親はどうなったのですか?」


「アリシアの母親は看病の甲斐もなく、翌年アリシアが二十歳のときに亡くなったと聞きます。しかし男はアリシアから離れなかった。その後も男はダニのようにアリシアに付きまとい、彼女を蹂躙(じゅうりん)していったのですよ……。

 後からわかったそうですが、男はマフィアの一員で母親の治療費に渡したお金を返せと、返せないのであれば別れることはできないと……」


 矯正長は乾いた唇を噛みしめて、「そして、アリシアが二十一のとき子供が産まれたと言います」その子供とはキプスのことだ。


「どうしようもない男の子供ですが、腹を痛めて産んだ子供です。アリシアは我が子をとても愛していました。『母親が死んでしまってから、何のために生きているのかわからなかった自分に、生きる意味を与えてくれた』と本当に聖母のような微笑みを浮かべて、私に語ってくれました」


 アリシアとはどのような女性だったのか、知る由もないが、とても心やさしい人だったということは矯正長の話でうかがい知ることができた。


「『辛く、苦しい毎日も我が子のためなら耐えられる』と。それと、同時にアリシアは我が子に申し訳ない気持ちでいっぱいでした」


「なぜですか?」


「『もっとまともな家庭に産まれさせてあげられなくて』と彼女は涙ながらに言っていました。子どもの成長を見守ることが、アリシアにとって唯一の幸せ。

 子供を養うためにはお金がいる。けれど、男は酒ばかり飲み、働きもしない。それどころか、酒が切れるとアリシアに暴力を振るうようになった」


 典型的なクズ男だ、とバートンは腹が煮えくり返る思いだ。

 どうして、女性に手を上げられようか。

 

 思うのも(はばか)られることだが、殺されて当然の人間ではないか。アリシアは悪くない。それだけ、アリシアは追い詰められていたのだ。


 だが、それはバートンの感情論。

 どれほど下衆で最低な人間だろうと、命を奪っていいことにはならない。どんな理由があろうと、人が人を殺していいことにはならない。


 どうして、殺してはならないのか、と理由を訊かれれば答えられないが、何があろうとも人が人を殺しては駄目なのだ。そう思える心が人間を人間たらしめているのだから。


「アリシアさんは、助けを求めることはできなかったのでしょうか?」


「わかりません。助けを求めていたのかもしれない。だけど、誰も助けてくれなかったのかも。男はその町で派閥を利かせていた、マフィアの一員ですから。下手に首を突っ込めば、どうなるかなど想像に難くない。それを想って、彼女も助けを求められなかったのかも」


「民衆は見てみぬふりですか……」


 バートンには何が正解なのかわからなかった。

 自分の身を守るということは、とても大切なことだ。

 

 下手に首を突っ込めば、自分の身を危険にさらすことになる。

 中には家族を持っていた人もいただろう。


 見てみぬふりをしていた人たちを、責めることがバートンにはできなかった。きっと、自分も家族を危ない目にあわせないために、危険なことには首を突っ込まない側の人間だから。


「アリシアは綿織物の仕事を必死にこなして、生活費を稼いでいました。その半分以上が、男の酒代に消え生活は厳しかったですが、彼女は何とか子供を育てることができました。子供が六歳になったころ、アリシアが一番恐れていたことが起きたのです」


「恐れていたこと……」


「男は子供にまで手を上げるようになりました。自分ならどれだけ、殴られようと耐えられたでしょう。事実、何年も男の暴力に耐えてきた。しかし、子供への暴力はどのような身体的な苦痛よりも、アリシアの心に深い傷を与えた」


 親がどうして、子供に手を上げられようか。

 我が子を持つバートンは話を聞くだけで、憎悪と軽蔑で吐き出しそうだった。


「アリシアは逃げることにしました。このままでは、子供が殺されてしまう、と考えて。その日の夜、男が寝静まってからアリシアは隠し持っていたお金だけを持って、逃げ出しました」


 もっと早くから逃げられただろうに、と思うのは何も知らない他者だからだ。暴力を振るわれ、恐怖を心身にまで植え付けられた、被害者は逃げ出したくとも逃げ出せない無力感にさいなまれる。


 逃げ出してもし捕まれば、と恐怖ばかりが先に立ってしまうのだ。

 仕舞に被害者は、逃げ出すという考えすら持たなくなる。


 だが、アリシアは我が子のために、このままじゃ駄目だと逃げ出す決心をした。


「矯正長殿、一つ訊きたいことがあるのですが」


 キクマは軽く挙手して、口を開いた。


「何でしょう?」


「そのアリシアという女性の子供の名前は? さっきから聞いていれば、名称が一向に出てこないのですが」


「それが……不思議なことに子供の名前を思い出せないのですよ……。申し訳ありません……。その子の名前だけを記憶から切り取られたように、すっぽりと忘れてしまっているのです……」


 矯正長は思い出そうとしばらく頭を捻っていたが、やはりキプスの名前を思い出すことができなかった――。

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