file42 過去を知る者、未来を嘆く
白いビートルが舗装されていない凸凹とした田舎道を、エンジンを響かせながら進んでいた。
太陽は頭上から降り注ぎ、白いビートルの車体を反射させる。
小石を轢くたびに、カタンと上下に揺れ、ビートルに乗っている男二人は舌を噛まないためなのか、それともただ単に無口なだけなのか、しゃべろうとしない。
車内の静寂に耐えられなくなったのか、それとも暇になったのか、ビートルを運転している男、バートンはポツリとつぶやいた。
「今日はドライブ日和ですね」
「ああ」
てんてんてん、と会話が続かない。
バートンはほとほと困り果てた。
昨日ロートレック刑務所の場所を突き止め、休日を返上してキクマに付き合わされているのだ。協力すると言った手前、断るわけにはいかない。
子供たちと遊ぶ約束をしていたのだが、きっと怒っているだろう。帰ったら謝らなければ……。許してくれることを願って。
「どうして警部はキプスさんの頼みを聞いているんですか? だって、警部には頼みを聞く義理なんてないじゃないですか」
バートンは横目でキクマをうかがうが、仏頂面に引き締められた顔が緩むことはなかった。それどころか、一層口が引き締められる始末だ。
答えてくれそうにないな……。キクマが人の頼みを聞くのだから、余程の理由があることは確かだとは思う。
ビートルは田舎道を走り、小さな町を抜けて、また田舎道に入りを三回ほど繰り返した。署を出たのが午前九時くらいだったが、今は午後十二時になった。
軽く三時間は走っている。
予定では三時間もかからないと思ったのだが、舗装されていない道はあまりに走りずらく、スピードが出せなかった。
やっと目的地周辺に到着したのは、予定よりも一時間半過ぎていた、午後一時半ごろだ。
「見えましたよ。たぶん、あれじゃないですか?」
バートンは右斜め前方に見える塀が取り巻く、建物を指さした。
四十五年以上昔からある刑務所はまだなくなっていなかったようで、バートンはひとまず胸を撫でおろす。
四メートルほどの塀の上には有刺鉄線が張り巡らされ、建物のてっぺんだけが頭を覗かせている。
明らかに刑務所の周辺は、下界とは違う雰囲気が漂っている。
キクマとバートンは門前を警備している警備員に、了解を取り、中に入った。
刑務所の中央にそびえ立っている建物の中に入って、受付で事情を説明した。四十五年ほど昔、服役していた女性の情報を教えて欲しい、と。
受付の事務員は話を飲み込めなく、ポカンとしている。
「どういうことでしょうか?」
バートンは声を潜めて、「旦那さんの暴力に耐えられなくなった、妻が旦那さんを殺害して、四十五年ほど昔に、この刑務所に服役していたはずなんです。
そのときに生き別れてしまったその女性の子供が、今必死に捜しているんです。僕たちはその捜索に協力していて」とこと細かに説明したけれど、初耳の人からしたら話が見えないだろう。
「つまり、その女性が今どこにいるのか教えて欲しい、と?」
バートンは受付口の台の上に上半身を乗り出して、「そうです」と迫った。
「その女性の名前は?」
バートンは言い渋る。
「名前は知らないんです……」
「名前を知らない……」
事務員は呆れた様子。
「四十五年も昔のことなんでしょ? それに名前も知らないのでは、調べようがないですね」
「そこを何とか、お願いします。ファイルにまとめていないんですかッ?」
「そう言われましても。旦那を殺害してここに入った受刑者など、沢山いますし、四十五年も昔で名前もわからないとなると――」
事務員は顔を引きつらせて、となりから歩いて来る老人を見た。
綺麗に白くなった髪を短く刈り上げ、老人だというのにがっしりとした体をしている。両手を後ろで組んで、背筋を伸ばしこちらに近づいて来た。
近頃の老人は皆背筋がしっかりしているな、とバートンは自分の猫背気味な背筋を思いながら感心した。
「矯正長殿ッ!」
そう言って、事務員は起立してピンと敬礼した。
この人の良さそうな老人は、矯正長だったのか。
つまりこのロートレック刑務所の中で一番偉い人?
どうして、このようなところにいるのだろう?
「盗み聞きしていて、申し訳ありません」
言って矯正長は軽く頭を下げた。
自分に謝っているのだと気づき、バートンはあたふたと、「いえ、とんでもありません」と手を胸の前でブンブン振った。
「話はすべて聞かせてもらいました」
「はあ……」
「あなた達が捜しているという女性と思われる人を、私は知っています」
矯正長は余りに淡々と言ったので、バートンとキクマは話を理解するのに時間がかかった。
「知っているって、女性をですか?」
「はい。私がまだ看守だったころ、私が担当していた女性がよく話してくれたのです。自分の子供のことを。あなたが今話されたその話と、酷似している」
そう言って、矯正長は事務員の男に「あとは私に任せてください」と言った。事務員は尾を引かれる思いで、その場を立ち去った。
事務員が座っていた椅子に矯正長は腰を下して、バートンと向かい合う。
「囚人番号4958、彼女の名前はアリシア。アリシア・ケイト」
「アリシア・ケイト」
バートンは名前を記憶に刻み込むように、口の中でつぶやいた。
「アリシアはいつも子供のことを話していました。ここを出たら、孤児院に預けた子供を迎えに行くのだと」
矯正長の悲しみに眉を歪めて語る姿は、不思議と話に惹きつけた。
「殺人はいけないことですが、彼女が旦那を殺した気持ちをわからないでもないです。アリシアは貧しい家庭に産まれ、幼いころは両親の仕事の手伝いをして、学校には殆ど通えなかったと言います」
きっと矯正長が話すアリシア・ケイトという女性は、間違いなくキプスの母親だ。
「アリシアの両親は農業で生計を立てる農民でした。両親二人は駆け落ち同然で結婚したそうで、どれほど苦しくても頼れる身内はおりません。
アリシアはそんな二人を手伝って、朝から日が暮れるまで働いていたそうです。苦しかったけど、それなりに楽しい暮らしだったと、私に聞かせてくれました。けれど、幸せは長くは続かないのが世の常です」
矯正長の声に感情がこもり、震えた――。