file41 捜し人
「ある女の事件って何ですか?」
バートンはコーヒーを飲むのを忘れて、キクマに訊ねた。
「知らねえよ。だから、今調べてるんだろうが」
言ってキクマは、机の上に積み上げられたファイルをバンバンとたたいて見せた。黒光りしたプラスチックファイルのタイトルには、事件の年数が順番に並んでいる。
「で、何か手がかりを掴めましたか?」
「いや、四十五年ほどまえの女が起こした事件なんざぁ、いくらでもあって絞り切れねえ」
確かに絞るにはキーワードが足りなさ過ぎる。
「キプスさんは何て言ってたんですか? 僕にも詳しく教えてくださいよ」
「詳しく聞いてどうするんだ?」
「え、いや。僕も手伝いますよ。どうせ、暇ですし」
キクマはどうしたものか、と一瞬考えるふうだったが、「その女は男に暴力を振るわれていたそうだ」と何の前振りもなく語りはじめた。
「よくある話ですね」
「いいから黙って聞け」
キクマに注意されて、バートンは慌てて口をつぐむ。
「女と男の間には子供がいた。男は子供にまで手を上げるようになり、女は子供を守るために、男を殺した。そして、女は刑務所にぶつ込まれ、子供は孤児院に送られたっていうよくある話だ」
「その、刑務所に入れられたっていう女を、キプスさんは調べてくれと言ったんですね。つまり、その孤児院に送られたっていう子供とは、キプスさん本人のことですよね。たぶん」
そうバートンが答えると、キクマは目を見開いて「どういうことだ?」と訊き返した。
「え? だから、その子供って言うのがキプスさんなんじゃないんですか……? そう考えると、その話に出てくる女って言うのは、母親になるのかな……? もしかして、わからなかったんですか?」
「あいつが言っていた話は、幼少のころの自分の話だったって言うのか?」
バートンは肩をすくめて、呆れる。
「警部はそういうところ、疎いですよね。じかに聞いてて、わからないって」
やれやれですよ、と言いたげにバートンはお手上げと、手を上げて首を振った。
「どつくぞ」
キクマは右こぶしを固く握りしめて、マフィアのドンのようなどすの効いた低い声でバートンを脅した。バートンは「ははは……冗談ですよ。冗談。冗談も通用しないんだから……」と両手を泳がせた。
「つまり、キプスさんはその刑務所に入れられてしまった自分の母親を、探してほしいんですよね。どうして、身元がわからなくなってしまったのかはわかりませんが、生きていればかなりのご高齢ですよ」
言いながらバートンはキプスの見た目年齢を考える。
「キプスさんの見た目年齢は、五十代後半くらいじゃないですか。そっから考えるに、その女性がキプスさんを、二十代で生んでいるのなら、七十五から八十代になりますよね」
「ああ、だろうな。つまり、あいつは自分の母親を探しているということか」
キクマは顎に手を添えて、しばらく押し黙ってしまった。
「まあ、考えていても、はじまりませんよ。キプスさんは四十五年ほど前の事件だと言ったんですよね。捜し出すのは難しいかもしれませんが、できる限り僕も手伝いますよ」
捜すと言っても、何からはじめればいいのだろうか?
「まず、どこの刑務所に入れられたのか、キプスさんに訊いた方が早いんじゃないですか。そしたら、だいぶ絞り込めますよ」
「俺も訊いた。だが、何も知らないの一点張りだ。本当に、知らないんだろうよ」
唯一の可能性は絶たれた。
「それじゃあ、その女性の名前は?」
「女としか言わなかった」
これは骨が折れるぞ、とバートンは心を決める。
「それじゃあ。その女性がどこに住んでいたとかは?」
「そんなこと知るかよ」
キクマもやけを起こしているようだ。
そりゃあ、手がかりというものが何もないのだから、誰だってやけの一つや二つ起こしたくなるだろう。
本当に見つけられるのか、不安になってきた。
五年、十年ならまだ追えるかもしれないが、四十五年も昔となると、不可能に等しいだろう。どっから、辿っていけというのだ?
そう思いながら、ファイルをめくっていると、バートンの目にある捜査ファイルが飛び込んで来た。
はじめのころは、キクマから聞いた話に似ているな、と思う程度だったが、目を通していく内に内容がほぼほぼ一致していることに目を剥いた。
こんなに早く、このタイミングで、それも四十四年前の小さな事件簿を見つけるなんて、運命の巡りあわせとしか考えられなかった。
「警部……警部ッ。ちょっと、警部ッ!」
「うっせえな。おまえはおとなしく、調べ物もできねえのか」
そう言ってくるキクマの顔に、バートンはファイルの一ページを突きつけた。
キクマは死んだ魚のような目で、ファイルを見ていたが、文字を追うごとに、魚が生き返っていくのがわかるほど目を輝かせた。
「でかしたぞ。きっと、奴が言っている四十五ほど前の事件って言うのは、これのことだ。夫の暴力に耐えかねた妻が、キッチンにあったナイフで、喉を一切り。翌日、妻は警察に夫を殺したことを告白し、ロートレック刑務所に入っている」
「はい。夫婦の間には一人の男児がおり、その子供は孤児院に預けられています。孤児院の名前までは、記されていませんが」
「このロートレック刑務所はどの県にあるんだ?」
バートンは署の事務員に片っ端から、聞き回った。
二十人近くの人間に訊き、誰も知っている者が現れなかったので、諦めかけていたとき、「知ってるよ」と言う神の声を聞いた。
「ほ、本当ですかッ!」
事務員はバートンの圧に、少々引き気味だった。
「ああ、ドルトーニュ地方の、サンタスティエっていう小さな田舎町の、周辺にあったんじゃなかったか?」
「ありがとうございますッ!」
その話を聞くや否や、バートンは駆けだした。
何が何だかわからないまま、取り残された事務員は呆然とバートンの背中を見送った――。