file40 禁断の知識の使い道
ようやく返す言葉を見つけたのは、カノンが言葉を発して一分以上経過したころだった。
「突然何を言い出すんだよ……? 試すって、どういう意味だ……?」
「言葉通りだ。このままじゃ、ミロルは目覚めることはない。だけど、獣の力の再生力があれば、もしかしたら――ミロルは目覚めるかもしれないじゃないか」
自分は酷く動揺しているとバートンは自覚している。カノンはいつものお茶らけで言っているのではなく、本気で言っているのだとわかるから、バートンは動揺していた。
「自分が言っていることの意味がわかってるのか……?」
「ああ、わかってるよ。言おうか言うまいか、ここ数年ずっと考えていたことだ。だけど、久しぶりにおまえにあって、心が決まった。昔、おまえ、銃で撃たれたにも関わらず、たった数日で傷口が塞がってたじゃないか。
つまり、あれだろ。その力は通常じゃ考えられない再生能力があるってことだろ。タダイ神父は人間のDNAに獣のDNAを移植すると、獣と言う人間を超越した化け物ができるって言っていた」
「ちょ、ちょっと待てよ……。おまえもあのとき聞いていたんだから知ってるだろ。適合率を少しでも上げようと、神父たちは適合しやすい子供たちを実験体にしてた……もっと早い段階ならともかく、今のミロルが適合できる確率は限りなくゼロに近い……」
カノンはうなだれて、「わかってる。わかってるよ……。だけど、このまま、何もしなければミロルはもう二度と目覚めないんだぞ……」言って顔を上げた。
「だったら」
カノンはより一層、言葉を強くする。
「一か八かやってみるのも手なんじゃないか」
バートンは返す言葉を持たない。それどころか、カノンの話に流されようとしている自分がいる。確かに、このまま目覚めないのであれば、一か八か試してみるのも手なのではないか……。
「だけど、どうするって言うんだよ……?」
「サエモンに相談してみたらどうだろうか? あいつらはあの実験のことを調べていたから、移植方法を知ってると思う」
「あの人は、その実験を撲滅するために、捜査していた人なんだ……。そんなことに協力してくれるわけないだろ……」
「聞いてみなきゃ、わからないじゃないか。もしかしたら、ミロルを助けるために、手を尽くしてくれるかも。病院代だって、あの人たちが今まで見てくれているんだから。
サエモンたちは獣の細胞を持っているはずだ。その細胞をミロルに移植してもらうだけじゃないか。もし持っていなかったとしても、おまえがいる」
バートンはゆっくりと、絶望的に首を振った。
「あの人は首を縦に振ってくれない……」
「だから、頼んでみなきゃわからないじゃないかッ!」
部屋の外にまで響き渡るほどの大音声を、カノンは上げた。
「すまない……ついムキになっちまった……」
「いいんだ」
そう言ってしばらくして、叫び声を聞きつけたのか、看護師の一人が部屋にやってきた。
ノックの後、とびらのすき間から様子をうかがうようにして、顔を覗かせ、「どうか、されましたか? 病院内では静かにお願いします」と心配そうにも、興味深そうにも取れる声音で訊いた。
「いえ、ちょっと、昔のことで興奮しすぎてしまって。声が大きくなり過ぎてしまったんです。申し訳ありませんでした」
「そうでしたか」
看護師はそういって、「ごゆっくり」と再び顔を引っ込めた。
看護師が立ち去った気配を感じ、二人は肩をなで下す。
「頼むだけ頼んでみてくれよ」
バートンは乗り気ではなかったが、断ることができなかった。
「ああ、わかった。頼むだけ、頼んでみるよ」
カノンは微笑み、「それじゃあ、稽古もあることだし、オレは先に帰るわ」とパイプ椅子をたたんで、後ろ手に手を振り立ち去った。
バートンはとびらが閉じる間際に見えたカノンの背中にいった。
「ああ、そっちも頑張れよ」
久々にミロルの見舞いに行った翌日。二日ぶりに顔を合わせた上司の顔は、阿修羅のように険しいものだった。
「どうしたんですか? いつも以上に怖い顔して。そんな顔していると、形状記憶されて戻らなくなりますよ」
いつものようにバートンは減らず口をたたくが、キクマは言い返してこなかった。これは本当に様子が“おかしい„とバートンは悟る。
キクマの背後を通り過ぎて、バートンはくたびれが目立ち、バネも緩んだソファーに腰かけて、しばらく上司の様子を観察した。
思い詰めるような表情だった。
何かに怒っているような表情でもある。
何か悪いことを自分はしでかしてしまっただろうか……? とバートンは考えるが思い当たる節があり過ぎて、絞ることができなかった。
もしかして、出してくれと言われていた事件の捜査書類を、まだ出していないことがバレてしまったのか……。だとしたら、早く謝らないとまずいことになる。
バートンは恐る恐るキクマに近寄り、上司の機嫌を取るべく、「あの~……コーヒーでも入れましょうか?」と訊ねてみた。
返事がない……。これは、本気で怒っているな……。
バートンは肝が芯から冷えあがり、変な汗が頬を伝うのを感じた。
何に怒っているのかわからない以上、おかしなことを言って墓穴を掘るわけにはいかなかった。
どうする……? どうする……? と無い頭を必死に回転させて打開策を考えた。無い頭を捻って出した策は、とにかくキクマの機嫌を取ることだった。
いるという返事をもらわない内から、とりあえずミルを使いコーヒー豆を砕いた。コーヒーの香りがキクマの怒りを鎮めてくれることを信じて。
ガスを使って水を沸かす。
砕いたコーヒー豆をフィルターに入れ、湯が沸くのを待つ。細い注ぎ口から白い蒸気が機関車のように吹きだし、バートンは砕いた豆にゆっくりと湯を注いだ。
子供のころはコーヒーなど、どこが美味しいのだと思っていたが、カレンが入れてくれるコーヒーはフルーツのような香りがして、敬遠しがちだったコーヒーを飲めるようになっていた。
それ以来、カフェインがないと何だか落ち着かないほどになっている自分。コーヒーには心を落ち着かせる効果があると聞くし、きっとキクマの機嫌も直ってくれるだろう、と楽観的に考えるバートンである。
「警部。コーヒーをどうぞ」
書類が置かれていない一角にバートンはマグカップを置いた。
そのとき、キクマは今日初めて顔を上げた。
「いつからいたんだよ?」
「はい?」
バートンは言葉を失う。
「ずっといたじゃないですか……冗談言うのやめてくださよ」
しかしキクマは真顔を崩さず、「冗談なんか言ってねえよ」と言い放った。
「考え事をしててな」
「じゃあ、怒ってたわけじゃないんですね」
「何がだ?」
「あ、いえ……何でもありません」
バートンは自分のコーヒーを持って、ソファーに着いた。
「考え事って、何を考えていたんですか?」
キクマはバートンが淹れたコーヒーを一口すすって、「昨日、あの男に会ってきた」と感情を押し隠したような平坦な声でつぶやいた。
「あの男って……キプスさんですか?」
「あの男に名前なんてねえよ。キプスは偽名だ」
「会って、何を話したんです?」
訊くか訊くまいか迷ったが、バートンは訊ねることにした。キクマはバートンの方に向き直り、バートンに心して聞けというふうな眼を向ける。聞いてはまずかったか? と後悔したときキクマはいった。
「あいつは、四十五年ほど前に起きたある女の事件を調べてくれ、と俺に言ってきた」