file39 見舞い
病院のベッドで眠り続けている人物がいる。もうかれこれ、二十年の深い眠りに落ち、目覚めることはなかった。
朝の光が顔に降り注いでも眩しそうに顔をしかめず、窓から吹き抜ける風が彼の髪を撫でても、安らかな顔で眠り続けている。
雪降る冬の寒い日だろうと、夏のムシムシとした暑さの中でも、彼は安らかな表情を崩すことなく眠り続けている。
「ミロル。調子はどうだ?」
ブラックブラウンのスーツに身を包んだ男が、花束を持ち白い病室に現れた。男の名前はバートン・テイラーという。テイラー家の養子となり、バートンの名を与えられた、元孤児だった。
バートンは白いシーツの上に横たわるミロルに訊ねたが、当然返事が返ってくることはなかった。自分の声の余韻を訊くたびに、バートンは悲しい気持ちになる。
「綺麗な花だろ。ダイヤモンドリリーって言うんだって。花屋の人が、お見舞いにはこの花がいいって選んでくれたんだ」
言いながらバートンはベッドサイドの上に置かれた花瓶に水道水を注ぎ、ダイヤモンドリリーを活けた。ダイヤモンドリリーのピンクの花弁が、甘い香りを発しバートンの鼻腔をくすぐる。
バートンはベッドサイドに立てかけるように置かれていたパイプ椅子を組み立てて、ミロルと向かい合った。
ミロルは二十年間ずっと眠り続けているのに、体は成長して、同じ大人になっている。自分たちは楽しい思い出を作ってきたのに、ミロルは一人時間から置いて行かれた病室の一室で、眠り続けていた。
大脳のほとんどが脳死しており、医者は目覚める見込みはないと言った。
「本当にごめんな……ミロル……」
バートンは何度泣いただろうか。
ミロルの見舞いに来るたびに、バートンは泣いていた。自分の力のなさが招いた結果がミロルなのだ。自分さへ存在しなければ、ミロルはこんな目に遭わなかった。
自分が今の生活を手に入れるために、ミロルは犠牲になった。
償っても償いきれない、罪の重圧にバートンは二十年間苦しんで来た。
「この前な、ある男を捕まえたんだ」
膝に肘をつけて、前かがみの状態でバートンは話など聞こえていないミロルに語りかける。
「驚くなよ。その男な、トゥールーズで騒がれていたっていた、ジャック・ザ・リッパーの再来とか言われてた男だったんだぜ。警部がジョン・ドゥなんて言うから、ついこの前までわからなかったんだ」
話せば話すほど、虚しさがバートンの心を蝕み、嗚咽がこみあげそうなほどに苦しかった。
「因果っていうもんが本当にあるんだな。おれの上司はそのとき、そのジョン・ドゥを追っていたんだってよ。案外世界は狭いんだって、思ったよ」
バートンは帰ってくる言葉がないのを構わず、一人で三十分近くも語り続けた。自分の子供の話や仕事の愚痴。日常の些細なこと。街の片隅で、死にそうになっていた昔の自分が嘘のように、毎日が幸せだった。
そのとき声が聞こえた。
「何しんみりしてんだよ?」
バートンは伏せていた顔を上げてミロルの顔を見た。ミロルが目覚め、言葉をかけてくれたのだと一瞬本気で思ったが、実際に言葉を発したのは「カノン」だった。
「久しぶりだな。どうしたんだよ? 今日は」
「『どうしたんだよ』って、見舞いに来たに決まってるだろ」
言ってカノンは花束で自分の肩をたたいた。
「まあ、オレが持ってくる必要もなかったようだけど」
「いや、そんなことないって。ミロルも喜んでるよ」
バートンがそう言うと、カノンは悲しそうに笑った。
「喜んでるよな」
「ああ。喜んでるよ」
カノンが持って来た花を活ける花瓶がなかったので、バートンのダイヤモンドリリーを活けている花瓶を共同で使うことにした。
ダイヤモンドリリーとカノンが持って来た名前も知らないオレンジの花が殺風景な白い病室に彩りを与えた。
「ところでそっちはどうだ? 最近」
「ぼちぼちだよ」
カノンは小さな劇団で俳優を務めていた。名前はまだまだ売れていないが、一部の熱狂的なファンが付いていた。明るく陽気な性格で同業者からも、好かれている。
「この前やってた、マクベス観たぞ。おまえが演じたフリーアンスよく似合ってたよ」
「そうか。だけどオレはいつか主役を務めてみたいね。オレにマクベスは似合うと思うか?」
バートンはカノンの姿をつま先から、頭のてっぺんまで見ながら考える。
「どちらかというと、バンクォーの方が似合ってるかもな」
それを聞いて、カノンは笑った。それから三十分ほど時間も忘れて、カノンと昔のことや今のことを語りあかした。
「ところで、子供はどうだよ? 今何歳になったんだ?」
「サムとケイリーか? サムが六歳。ケイリーが八歳だよ」
「もうそんなになるのか。時が経つのは本当に早いな。通りでおまえも、おっさんになるはずだよ」
「ああ。本当だよな。あのころはまさか自分が家族を持てるなんて、夢にも思わなかったからな。明日生きることだけを考えて、駆けてきた幼少時代だった」
バートンは苦しく辛い過去だったが、思い出すのは苦にならなかった。思い出すたびに心が締め付けられるように痛くなり、それでいて懐かしい。
きっと、自分はみんなで面白おかしく暮らしていた、あの当時が嫌いではなかったのだろうと思う。
「苦しかったけど、それなりに楽しい毎日だったよな。街でバカやって、追われて、いつかこんな生活から抜け出してやるって夢見て」
「願えば夢は叶うんだな。願い続けていれば、ミロルも目覚めてくれるかな?」
バートンはミロルの穏やかな寝顔を見ながら、天に願った。
「いや、夢は願ってるだけが叶わねえよ。オレたちは夢を叶えるために行動したから、夢を叶えることができたんだ。ミロルを目覚めさせるためには、行動しなきゃ駄目なんだよ」
カノンの言葉は普段の陽気な口調とは違った。
バートンは訝しむ。
「なあ、ニック……サエモンが言っていた、獣の力は今もおまえの中にあるのか?」
突然何を言い出すのかと思えば、「何だよ急に? そんなに改まって、変なこと訊くな……? おまえらしくないぜ……?」と場の空気を和ませようとバートンの方がお茶らけて見せた。
「あるのか? もう、ないのか?」
本気で訊かれているのだと悟り、バートンは答えた。
「わからないんだ。あの日以来、別にこれといって何事も起きていない」
「傷の治りはどうだ? あの日おまえはサエモンたちの部隊にここんところを撃たれたんだ。普通に考えれば死んでいるのに、数日後に再会したときには傷口は治っていた」
言ってカノンは、自分の左胸寄りのみぞおちを親指で突いてみせた。
「何が言いたいんだよ?」
バートンは不安だった。
カノンはおかしなことを考えているのではないだろうか、と。
「その獣の力ってやつを、ミロルにも移植してみたら、機能していない脳も生き返るんじゃないか?」
塵ほども予期していなかった言葉に、バートンの思考が追いつかず、しばらく言葉を発することができなかった――。