case211 素晴らしい仲直り
謝り損ねてから、ますます顔を合わせづらくなった。
いや、目を合わせることすら苦痛でしょうがない。
チトの落ち込みように、ユアは申しわけないことをした、と思わずにはいられなかった。
チャップとチトの間に何があったのかは知らない。けれど、いつもは男勝りのチトがここまで、奥手になっているのをみると余程のことがあったのだとはわかる。
きっと、謝らなければならないことをしたのは、チトの方なのだろう。
だからチトは苦しんでいるのだ。ただ、謝るだけと簡単に思うが、本人にしたら想像を絶するほどに勇気のいることなのだ。
チトの気持ちを考えてあげずに、自分は勝手に場を取り持って酷いことをしてしまった……とユアは後悔した。
「チト……」
ユアはチトの部屋に行き、あの日のことを謝ろうと思った。強引にことを進め過ぎた。物事には順序というものがある。何も知らない他人が勝手に進めてはいけないのだ。
「何?」
チトは机に向き合い、ペンを動かしている。
背中に覇気はなく、心なしか暗い。
ユアは切り出すタイミングをうかがう。チトの声から察するに怒っている様子はない。意を決して、いった。
「あのね。この前はごめん……。勝手にあんなことして……」
「いいよ。別に気にしてないから」
その言葉にユアは救われた気がした。
「本当にごめんね。チトには仲直りして欲しくて……」
「自分こそごめん……不甲斐なくて」
チトは振り返り、ユアを見た。
「おれも謝りたいと思ってるんだ……。だけど……いざ本人を前にするとパニックになって、どう謝っていいのかわからなくなる……。おれ小さいころから自分から謝ったことなくて……どう謝っていいのかわからないんだ……」
チトの声は悲痛で、聞いているだけで辛く悲しい、想いが伝わった。
みんなそれぞれが、それぞれの過去を持ちここに引き取られた。
親に捨てられた子。戦争で親を亡くした子。色々な子たちがマリリア教会にいる。だから、暗黙の了解のようなものが存在し、みんな教えられたように個人の過去を詮索しない。
それはチトも同じことで、ここに引き取られるまでは子供の小さな胸には背負いきれないほどの辛い経験をしてきている。
「チトも謝りたいんだよね」
ユアはチトを抱きしめていた。
チトは体を固くする。けれど、ほどなくユアに身を任せた。
「大丈夫。チトなら謝れるよ。今じゃなくてもいい。時間ならたっぷりあるんだから。チャップも待ってくれているもの」
ユアの背中にチトの骨ばった手が回された。
人の体温を肌で感じることは、とても安心すること。
「ありがとう……今すぐには無理だけど、近いうち。心の準備ができたら、謝る。昔してしまった酷いことを、心から謝るよ」
それから数日後のことだった。
チトとローリー宛てにある手紙が、マリリア教会に届いた。
住所も差出人も不明のその手紙を見て、チトとローリーは理解した。どうして、キクナに宛てた手紙の返事が来ないのかを。
手紙の内容はまるで、永遠の別れを告げるようで、二度と出会えないようで、物悲しい内容だった。
文面から察するに、キクナは死んだのだ。手紙の返事が来なかったのは、キクナが死んだからだ。自分たちと別れた後に、キクナの身に何が起きたというのだろう……。
チトは文面を何度も読み込み、意味を消化する。
けれど、キクナの身に起きたことは何一つ載っていない。この手紙を書いたのはキクナではない。けれど、言葉はキクナのものだ。
誰かのいたずらだと思いたかった。
しかし間違いなく、キクナからの手紙だ。
キクナにはもう出会えないということ。
この世界中どこを探しても、いない。
その日の夜、チトは一晩中泣いた。
伝えたいことが沢山あったのに、沢山できたのに……。恩を返したかったのに、お礼を言いたかったのに。もう、この胸にわだかまった思いを伝えることはできない。
それじゃあ、どこにこの想いをぶつければいいのだろうか。苦しいこの胸の内を誰にぶつければ……。誰にもぶつけることはできない。なぜなら、キクナはもういないのだから。
キクナへの想いは、キクナ以外にぶつけることはできない。
どうして、キクナは自分に手紙を出したのか。この手紙はキクナが書いたものではないが、キクナが紡いだ言葉だ。自分の体が動いたなら、キクナのことだ自分で書くだろう。
けれど、別の誰かが書き、自分たちに宛てた。つまりキクナは書きたくても書けない状況にいた。手紙を書くことすらできない、死の淵にいたということだ。
信頼のおける誰かに、キクナは最期の力を振り絞って自分たちに手紙を書いてくれと伝えたのだ。そこまでして、キクナは自分たちに何を伝えたかったのだろう……。
キクナは最期に想いを伝えてくれたのだ。
想いを伝えないまま逝くのが嫌だったから。死んでしまっては、もう伝えられない。そういうことだ。
「そういうことだよな。キクナ……」
想いを伝えられるのは、その人がまだこの世にいるからだ。いなくなってしまったら、伝えたくても伝えられない。
この広い世界でまったく違う人生を歩んできた、キクナと自分たちが出会い、いまこうしてマリリア教会の人々と暮らしている。
まったく違う人生を送っていたチャップたちが、まったく違った経緯でマリリア教会に来て、自分の前にいる。これほど出来過ぎた話があるだろうか。
すべての物語はチャップと自分を再び再会させるために動いていたように。因果は繋がっている。
「わかったよ。おれに償うチャンスを神様が与えてくれたんだな」
心の整理はついた。
謝る決心もした。
すべての条件はそろった。
後悔なんてしたくない。
泣き疲れ、いつの間にかチトは深い眠りへと落ちていた。
翌日の朝は天を突くほどに高い青空。雲一つない、晴天。
清々しい風。最高の一日。涙で腫れあがった顔。
チトはユアに改めてお願いをして、チャップを庭に呼んだ。
チャップの仲間たちは遠く離れた樹の陰で、成り行きを見守っている。緊張感がこの場にいるチト、チャップ、ユアを取り囲んだ。
チャップはチトが口を開くのを根気強く待っている。大丈夫。大丈夫。もう迷いはない。今なら言える気がした。ため込んでいた想いは爆発直前だ。
「チャップ……」
本人の前で名前を呼ぶのは何年ぶりだろう。あの日、縁が切れたあの日から、チトはチャップの名前を呼ぶことが恐ろしくて……。
「ああ――」
チャップの声をまじかで聞くのは何年ぶりだろう。声変わりをしていて、高かった声は低く、かと言って大人のものではない、中途半端な声音。
「あの日……裏切ってごめんな……」
今から自分が言おうとしていることが、言い訳じみていることはわかっている。けれど、自分にも裏切りざるを得なかった理由があることを理解して欲しい……。
「おれも……裏切りたくはなかったんだ……」
言葉のと息を吸い込むと同時に、チャップがいった。
「わかってるさ。そんなことわかってた」
チャップは一歩チトに近寄る。
手を伸ばせば触れる距離に、チャップは立っている。
「おまえの方がずっと苦しい想いをしていたんだよな。ごめんな、そんなおまえを置いて逃げちまって……。謝らなければならないのは、俺の方だったんだ。ローリーが人質に取られていることを、知っていて、見て見ぬふりをしていた……」
チャップは頭を下げた。
「本当に、ごめんな……。裏切ったのは俺の方だったんだ……本当にごめんな……」
「いや。そんなことない」
チトは慌てて、口を挟む。
チャップがどう感じていようと、事実裏切ったのは自分なのだから。
「チャップは悪くない。おれが悪いんだ……あのときは、ごめんなさい。許してくれなんて、厚かましいことはわかってる……」
チトは手のひらが白くなるほど強く手を握りしめて、意を決す。
「だけど、許してくれるなら、また、おれとつるんでくれますか?」
緊張と恥ずかしさから、体が熱い。
このまま、逃げてしまいたかった。けれど、今は今だけは、逃げては駄目だ。チャップは笑った。
「相変わらず口が悪いな。女の子なんだから、もっと言葉遣いをやわらかくしろよ」
な、とチトは顔を赤くした。
「仕方ないだろ……そう簡単に直らないんだから」
「つまり、友達になってくださいってことだろ」
訂正されて、改めて言われると自分がものすごく恥ずかしいことを言ったのだと諭されたようで、いたたまれない。
「ああ、色々あったけど。もう一度俺とつるんでくれますか」
チャップは右手を差し出した。
物珍しいものを見る目で、チトはチャップの手のひらを見つめる。チャップの目と手を交互に見つめ、チトは自分の右手を差し出した。
「喜んで――」
色々なことが起きた。
辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと、子供のチャップたちには背負いきれないほどの、色々なことが起きた。けれど、その辛かった経験があったからこそ、今がある。
辛かったときのことを忘れてしまったら、自分が自分ではなくなる。これから先、自分が年老いてボケようとも、この思い出を忘れたくないとチャップは思った。
街でスリをして生きていたときが夢だったかのように、今はとても楽しく、幸せだ。
すべての原因は素晴らしい最終回へと向けて、動いているのだ。自分が経験してきたことはすべて、素敵な最終回を迎えるための伏線となる。チャップはそう思う。
十年に一度の晴天と言っても過言ではない、澄み渡った空が降り注ぐ日、二人は仲直りを遂げた――。