case209 ひと時のわかれ。そして、新たな旅立ち
子供たちはすし詰め状態で、車に揺られ、酔いを訴えるものもいた。
男子たちは後部座席いっぱいに敷き詰められているのに対し、セレナは助手席で悠々自適と窓の外を眺めている。
「酔った……」
カノンは座席の丁度真ん中に座っていた。その隣をチャップとニックが硬め、ドアに押し付けられるようにしてアノンがもがいている。
「吐くなよ……」
チャップはカノンから距離を取ろうとするが、上半身を数センチそらすのがやっとだった。カノンは涙目になって、込み上げる胃酸を何とか抑えている様子だった。
顔色が見るからに青い。
「サエモンさん……窓どうやって開けるの?」
チャップは鬼気迫る形相を称え問う。
「レバーがあるでしょう。そのレバーを回してください」
チャップは言われるがまま、ドアノブの横に付いていたレバーを巻いた。巻きはじめは重かったが、調子がつくにつれて軽くなる。
くぐもっていた劣悪な空気が、一瞬にして新鮮なものへと入れ替わった。
「ほら、吐くなら外に吐け」
チャップは腹を抱えるようにして、うずくまっていたカノンにいった。返事はない。返事ができないほどに、追い詰められているのだ。
「ば……場所替わってくれ……」
喉に何かがつっかえたような太い声で、カノンはいった。
チャップは立ち上がり、カノンはもぞもぞと席を変わる。カノンが窓の外に顔を出すと、チャップは助手席の座席シートをしっかりと持って、真ん中の席に移った。
間もなくカノンの嗚咽が聞こえた。危機一髪だったと思ったのは、車を運転するサエモン。
「大丈夫か?」
カノンは虚ろな表情で、空を見上げている。
「え……大丈夫……。車に乗るのなんて慣れてないからよ……」
意地を張る元気もないらしい。
「もう少し辛抱してもらえますか。この一本道を進んだ先にマリリア教会がありますから」
サエモンはバックミラーを覗き込みながら、カノンが数十分の道のりを耐えられるかどうかを推し量ったが、ギリギリと見た。
「ここで一度休みましょうか」
「いや、大丈夫……もう少しなんだろ」
「はい。あと、十数分で着きます」
「じゃあ、行ってくれ」
強がっているのか、本当に耐えられるのか。
サエモンはカノンを信じ、そのまま車を飛ばした。
なだらかな草原地帯が続く道を、羊たちが駆け回る光景を見ながら、カノンは伸びをした。小高い丘の上に、ポツンと立つ白い教会が見えた。
教会の屋根には鐘が付き、かすかに揺れる振り子が透き通る旋律を紡いでいた。
「あなた達が暮らすことになる、マリリア教会です。シスターたちに挨拶しに行きましょう」
子供たちは思い思いにこわばった体をほぐし、自分たちの家となる教会を見上げた。ルベニア教会よりも小さいが、圧迫感はない。
「ニックくん。すぐに戻ります。車で待っていてもらえますか」
ニックは皆に視線をやって、頷いた。
「わかった」
そのときだ。セレナがニックの下にやってきて、強いハグをした。
お別れの抱擁。
「いつでも、遊びに来てね」
ニックもセレナの背に腕を回し、迷いのない声で答えた。
「必ず」
次々にニックは別れの抱擁をかわす。
チャップは力強くニックを抱きしめ、「元気でな」といった。
カノンは恥ずかし気に、ハグする。
アノンは別れを惜しみ、泣いてくれた。
ニックは皆の背中を見えなくなるまで見送った。これが一生の別れではない。また落ち着いたら、会えるのだ。
サエモンは三十分ほど後に教会から出ていた。
チャップたちの境遇を簡単に説明していたのだろう。
運転席のドアを開けて、シートベルトをしたサエモンはニックに向き直りいった。
「それではニックくん、私たちも行きましょうか」
ニックはサエモンの運転する車に三時間以上も揺られた。
どこに向かているのかは知らされていないが、自分を養子に迎え入れてくれるという人物の下に向かっていることはわかった。
なだらかな草原地帯を抜け、しゃべれば舌を噛みそうなほどの悪路を通り、村を抜け、車はセンティアという町に着いた。
「これから紹介する人は、私のもと上司です。とても厳しい人ですが、悪ささへしなければ、恐れることはありません。それと、言葉遣いは丁寧にです。汚い言葉遣いには大変厳しい方ですから」
サエモンはある館の前で止まった。
館と言っても、他の家よりも少し大きいくらいの家だ。
「おれ……言葉遣い汚いかな?」
「おれではなく、僕か私の方がいいでしょう。昔は私も一人称をおれと言っていましたが、直されました」
ニックは意外、という目でサエモンを見た。このですます調のサエモンが自分のことをおれと言っていたことが信じられなかったのだ。
「わかった……」
とは言ったもののニックは不安でいっぱいだった。
サエモンは車から降り、ニックに後を付いて来るように促した。緊張のあまり足と手を同方向に進ませ、ロボット的に歩いた。
サエモンはとびらの前に立ち、リングのノッカーを鳴らした。しばらく待つと、中で人の動く気配がした。とびらが開き、四十代くらいの女性が顔を出す。
使用人だろうか? 女性はサエモンの後ろに固まっているニックを一瞥して、室内に入るように促した。
サエモンは頭を下げて、玄関の中に入った。ニックもあとに続く。靴を脱ぐ仕様になっているらしく、綺麗なカーペットが廊下を彩り、赤いスリッパが二足出ていた。
女性に案内されるまま、サエモンとニックはソファーの並んだリビングルームに通された。女性は少々待つように言って、廊下の奥へと消えた。
重厚感のあるソファーに腰かけて、ニックは拾われてきた猫のように、辺りをキョロキョロ見回した。
レンガを積み上げた暖炉があり、その上に可愛らしい小物が置かれている。ニックから見たら、ソファーを挟んだ向かい側に書棚があり、そこに高級そうな本が並べられていた。
テーブルの上に燭台があり、銀色のきらめきを放っている。
「そんなに、キョロキョロするものではありませんよ」
ニックはキョロキョロと人の家を見回すのが、失礼に当たるとは知らなかった。何もすることがないので、ニックは自分の足元を見つめて俯いた。
この感覚はルベニア教会にいたときの注射を待つ感覚に似ていると思った。
「お待たせしました」
今さっきニックたちをリビングに案内してくれた、女性は銀のトレイをもって再びあらわれた。トレイの上にはアップルパイと蒸気の立つ飲み物が載せられている。
トレイを置いてそのまま立ち去るのだと思っていたが、女性はそのままニック達の前に座った。ケーキと飲み物を二人の前に置いて、女性は改めてニックを見た。
「カレン。お久しぶりです」
サエモンはソファーから立ち上がり、カレンという人物の下までおもむくとその手の甲に唇を当てた。
「あなたも変わりなく、何よりです」
カレンは目尻に小じわを寄せて、上品に微笑んだ。
何をするにも、王族のような高貴さが漂いると、ニックでも感じた。
「はい。この度は引き受けてくださり、誠にありがとうございます」
「いえ。構いません。私には子がおりませんから。養子でも取ろうと思っていたところです」
そういって、カレンはニックを温かい目で見た。
「ニックくんですね」
カレンは赤ちゃんを寝かしつけるかのような、やさしい口調で訊ねた。
「はい。そうです」
今まで緊張で、頭が真っ白になっていたが、不思議とカレンと話をすると緊張はどこかに消えていた。カレンには場の空気を和ませる、力があった。
「サエモンから、話は聞いています。今まで大変でしたね」
聖母のようなやさしい微笑みを称えて、カレンは微笑む。ニックはその姿に母の温かみというものをはじめて感じた気がした。
「あなたは、今日から私と共に暮らすのです。そして、名を改め、バートン。バートン・テイラーと名乗るのです」
ニック――いやバートンと新名を与えられた少年が、使用人だと思っていた女性は、この家の主カレン・テイラーといった――。