case207 ユアが教えてくれたこと
朝は授業ではじまった。
木組みの机が段々状に並べられた部屋の黒板前。ベタニアが教科書片手に、歴史の授業をしている。チトとローリーはわからずとも、授業だけは聞いていた。
わからないところがあれば、後で誰かが教えてくれた。ユアやリリー、アリーテ、ムニラ、たまにファニーが勉強を教えてくれる。
みんなはとてもやさしく、決してよくない境遇で育った自分たち姉妹に、とてもよくしてくれた。
気持ちを表に出すのが苦手なチトはなかなか、感謝の気持ちを言えないでいるのがもどかしい。
みんなは教科書とにらめっこしながら、ベタニアが語る古代ローマの歴史に思いを馳せている。チトも多少なりとも、理解できているつもりだ。
古代ローマはイタリア半島中部に位置した多民族から、なっているのだと。神話上では軍神マルスとレア・シルウィアとの間に生まれた、ロムルスとレムスという双子の兄弟が、建国したと伝えられている。
王の末弟のアムリウスは王位を奪っていたが、兄の孫である双子の復讐を恐れて、双子をテヴェレ川に捨てた。けれど、双子は狼に拾われ、育てられたという。
ベタニアはローマの繁栄期に存在していた、哲学者の話や、その弟子が造ったアカデメイアの話を中心に語った。
聞いているだけで自分が賢くなったような、不思議な高揚感を感じた。授業が終わると、当番の子供たちが昼食の手伝いをする決まりになっている。
五十人以上いる子供たちの食事を、たった二人のコックが作っているのだ。手の空いたものが手伝わなければ、回らなかった。
今日はチトが当番を受け持つ日。
教科書を机の引き出しにしまって、チトは食堂に向かう。
自分がこのような生活を送れていることが、未だに現実感をもって感じられなかった。どこから、変わったのだろうか。ノッソンのところから逃げ出し、キクナに出会った。
自分たち兄弟の人生を変えてくれたのは、間違いなくキクナだった。今キクナは何をしているのだろうか。キクナが帰ってから、手紙を何通か書いたが、まだ返事が来なかった。
どうしてなのだろうか……。
なぜ、返事が来ないのだろう……。
ここ数日は、そのような心のわだかまりが拭えないでいた。
キクナの身に何かあったのではないだろうか、と。不安ばかりが頭をよぎる。
何をするにもどっちつかずで、夢うつつ。
食器の支度をしているチトの背後で、ユアの声が聞こえた。
「チト」
一度目では気づかずに、二度目の呼び声でチトは振り返った。
「何?」
「大丈夫……。最近変だよ」
「え、おれが?」
自分を指さしたとき、ユアは目を鋭くしてチトを睨んだ。
「ほら、またぁ~。女の子が自分のことを『おれ』なんて言っちゃいけないわよ」
チトは口をつぐむ。
そうは言われても、物心ついたときから自分のことを、おれと言っていたチトは、なかなか改めることができなかった。わたしを使おうとすると、気恥ずかしく言い出せない。
だから、自分のことを表したいときは『自分』と表現することが多くなっていた。ユアには呆れられるが、仕方がない。
「まあいいわ。最近心ここにあらずって感じだけど、どうしたの? 何か悩んでいることがあるなら、相談してよ」
チトはユアを見た。その真っすぐな瞳を直視するのは、自分の穢れと対峙しているようで居心地の悪さを感じる。
「ありがとう。実は……」
言いかけたとき「何休んでいるの? 今、一番忙しい時間よ」とリリーが二人の間に割り込んだ。
面目なさげにユアはいった。
「チト、後で聞かせて」
「あ、うん……」
ユアは自分が受け持っていた盛り付けの仕事に戻った。
食事の準備が整い、食堂に子供たちが溢れかえる時間になった。
年少の子供たちが先に食事を済ませ、開いた食器をチトたちが片付ける。年少の子供たちより、一時間ほど遅れて、年長の子供たちが食事をとった。
食前の祈りを唱え終わったとき、ベタニアが告げた言葉に皆は騒然となった。
「皆さん、大事な話があります」
子供たちの視線は一身にベタニアに注がれる。
「明日、ここ、マリリア教会に新しい家族が加わります。歓迎の催しをしたいので、手の空いている人は手伝って欲しいのですが」
ユアが挙手した。
「ユアさんどうぞ」
「はい」
ユアは椅子から立ち上がり、ベタニアに質問を投げかけた。
「何人ですか? 男の子ですか? 女の子ですか?」
「四人で、女の子一人と男の子が三人です」
自分が思うのもなんだが、今でも手が回らないというのに、これ以上子供たちを引き受けて大丈夫なのだろうか、とチトは思う。
「料理と部屋の飾りつけを手伝ってくれますか?」
「はい」
ユアは元気に答えた。
食事を終えるとチトたちは、部屋の飾りつけを手伝った。紙で作ったチェーンを壁に吊るしたり、調理の手伝いをしたりと、一日を追われた。
「ところで、さっき言おうとしていたことって、何だったの?」
ユアは紙を丸めて装飾品を作りながら、再び訊ねた。
「ああ、キクナに手紙を書いたんだけど、返事が来ないんだ……」
「ああ、そう言えば『手紙を書いてね』って言ってたよね」
「うん……。だけど、返事が来ないんだ……」
「それで、何かあったんじゃないかって心配しているんだ」
チトはうなずいた。
この気持ちは心配という感情なのだろう。だとしたら、自分はとても心配していた。
それから、一か月後に差出人不明の手紙が、キクナの訃報を知らせることになる。それまでは、誰も知る由もない。
「きっと、大丈夫よ。何か手違いがあって、手紙が届いていないのかもしれないわ」
ユアはチトの不安を拭い去ろうと、いつもよりも明るく励ました。
「ああ、そうだな。話したら気持ちが楽になったよ。そうだよな。手違いがあったのかもしれない。そう考えると、そうだって気がするよ」
チトはハサミで紙を切り、ユアに渡す。
「聞いてくれてありがとう。ちょっと気持ちが軽くなったよ。準備をしようぜ」
「そうね」
人に悩みを打ち明けるだけで、これほど気持ちが軽くなるものなのだと、ユアが教えてくれた――。