case206 本当の日常
みんなの注目が一身に向けられていることに、ニックは多少の気恥ずかしさを覚えた。この世に存在しない幽霊でも見るように、驚きに見開かれる目でみんなはニックを見る。
「ニック……本当に、ニックなのか?」
カノンは手持ち無沙汰の手を、前に出してニックに迫った。
それはまるでイエスの復活をその目で見、触るまで疑いを拭えなかった使徒トマスのように。
「だけど、おまえは撃たれて……。なのに、こんなに早く……」
ニックはカノンの疑いを拭い去ろうと服をめくって、みぞおち部分に、みみずばれの跡が残る傷口を見せた。
「撃たれたはずなのに、もう塞がってる……」
カノンはニックの傷口に触れて、幽霊でないと確信したようだ。
「幽霊じゃないだろ?」
ニックはお茶らけてみせる。
カノンはうるんだ目をして、うんうん、とうなずいた。
「心配してたんだぞ……あのとき銃で撃たれたから……」
カノンが言ったとき、となりから飛び出したセレナはニックを抱きしめた。
強い抱擁はニックをどぎまぎさせ、セレナを体で感じていると、彼女が小刻みに震えていることがわかった。その震えは恐怖から来るものでないと、セレナの涙を見て悟った。
「よかった……本当によかった」
セレナの背中に手をそえて、ニックは答える。
「心配かけて、ごめん」
自分のことを本当に心配してくれていたのだと、身をもって感じた。チャップはベッドの上で上半身を起こし、そんなニックを眺めている。
「チャップ……大丈夫か?」
ニックはチャップの下まで歩み寄る。
「ああ、俺は大丈夫だよ」
チャップはとなりのベッドで眠る、ミロルを見据えた。
「ミロル眠ってるのか?」
「ああ、あの日から、起きないんだよ……」
起きないとはどういう意味だろうか……。
チャップの言葉が意味を持って、ニックの心に衝撃を与えるまでにわずかなラグが生じた。
「どうして……」
おぼつかない足取りで、ニックはミロルの下に向かう。ミロルは両手をシーツの上に出し、穏やかに眠っていた。
ニックはみんなを見渡す。誰もうつむいたまま、目を合わせようとしなかった。その表情は暗く、鎮痛に沈んでいる。
「医者は……大脳が機能していないって……」
言いずらそうにチャップは答えた。どうして、どうして、どうして、という言葉が蜷局を巻き脳を締め付けた。
「なんで、こんなことに……?」
「煙を吸い過ぎたんだって……」
ニックは自分を責めた。助け出すのが遅かったからだ。もっと、早くミロルを助け出せていれば、こんなことにはならなかった……。
ニックはシーツの上に投げ出された、ミロルの手を取った。体温はあるものの筋肉はこわばり、人形の手をつかんでいるようだった。
「ミロル……。なあ、ミロル……どうしちゃったんだよ……?」
こわばった手のひらをもみほぐしながら、ニックは震える声でいった。
「なあ、起きろって……。なあ……おまえは悪ふざけするような奴じゃないだろ……。なあ……」
ミロルの返事はない。
今までこらえていた涙が決壊して、とめどなく溢れはじめた。
皆はそんなニックの姿を悲嘆の表情で、黙って見守っていた。
「お取込み中、申し訳ありません」
とびらが開いたと思うと、今まで廊下で待っていたサエモンが姿をあらわした。
「お久しぶりです。調子はよくなられましたか?」
悲嘆にくれる皆とは対照的に、感情のない平坦な声でその男は問うた。皆は怒りはしなかったが、苛立ちのような感情を持ったかもしれない。
「今日は皆様に大事な話をするために来ました」
サエモンは一人ひとりの顔を見ながら、ゆっくりとした足取りで立てかけられていたパイプ椅子を組み立て、座った。
「まず、ミロルくんのことです」
皆の視線が一身に惹きつけられたことを確認して、サエモンは足を組んだ。
「ミロルくんは我々が責任をもって、治療に当たらせてもらいます」
「本当かッ」
カノンは一歩前に出た。
「本当です。その代わり交換条件です。いいですか?」
一人一人の顔を見渡しながら、サエモンはいった。
皆を代表するように、チャップが代わりに答える。
「ああ」
「私が出す条件をすべて飲んでください。一つでも、飲めないのであれば、この取引は無効です」
「わかった」
「一つ目。ルベニア教会で知ったこと、見たことを一生涯他言してはなりません」
皆はうなずく。
「二つ目。ニックくんは我々が引き取ります」
それには皆怪訝に顔をしかめた。
けれど、ニックは「構わない」と迷いなく答える。
「三つ目は、あなた達の今後についてです」
「俺たちの今後……」
「ニックくんを除く、あなた達四人は、マリリアという教会が面倒をみてくれると言っています。構わなければ、近いうちに移ってもらいたい」
皆はお互いに顔を見合わせた。自分たちに、新たな住みかが与えられるというのだろうか。
チャップたちは再びあの街に戻ることを考えていた。けれど、住みかを与えてくれるのであれば――。
「俺たちに家を与えてくれるんですか?」
半信半疑にチャップは問うた。
「はい。私もマリリア教会に出向き視察をしましたが、皆心やさしい人ばかりです。きみ達は十八歳になるまで、マリリア教会で面倒を見てもらえます。どうしますか?」
サエモンは確信して言っている。
断ればミロルの命はないと、脅しているようなものだった。けれど、悪い条件ではない。それどころか、願ってもない条件だった。
「チャップ、セレナ、アノン、カノン」
ニックは皆を見渡し、「行って来いよ。おれはいけないけど、二度と会えないわけじゃないんだ。おれもたまには、おまえ達に会いに行くから」と背中を押す気持ちで言い放った。
チャップたちはお互いの意志を確認するように、目を見合わせる。言葉にしなくとも、心で相手の考えていることがわかるから不思議だ。
「俺たちを、よろしくおねがいします」
チャップが頭を下げると、セレナ、アノン、カノンと一斉に頭を下げた。今度こそ、普通の暮らしを送れるのだ。人の物を取らなくても、騙さなくても、普通に暮らせる、そんな毎日を。
マリリア教会というところなら、かならず――。
表情の乏しかったサエモンがはじめて、微笑んだ。
「わかりました。では、マリリア教会のシスターたちに知らせて置きます」