case203 私を好きになってくれて、ありがとう――
ホールの中央で、もう一つの小さな命が燃え尽きようとしていた。虫の鳴くような、切れ切れのかすれた声で、必死に想いを伝えようとする女性がいた。
最期の力を振り絞ってまで、伝えなければならないことが女にはあった。
「死んじゃえって、心から言ったんじゃなかったの……」
思ってもいないのに、つい口から出てしまった酷い言葉。
キクナはどうしても、最期に詫びたかった。
「そんなことわざわざ言わなくても、わかっている」
キクナが流す涙は、血と溶け合った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝らなくてはならないのは私の方だ。こんなことに巻き込んでしまって済まなかった。きみに出会ってしまって、本当に済まなかった」
キクナの肌から徐々に体温が失われていくのを、肌に感じた。
なんと皮肉なことだろう、因果というものだろう。自分が得意とする、殺し方でキクナは命を奪われようとしている。こうなってしまっては、もう誰にも助けることはできない。
人間は血液の三分の一を失うと、命に係わる。
キクナの体重は五十数キロだったはずだ。流れ出た血を考えると、もう数分もしない内に、死んでしまう、と客観的に考えた。
「そんなことないわ……。わたしが、選んだことだもの。わたしが、あなたを好きになったんだもの。後悔なんてない」
キクナの瞳はかすんでいた。
もう、目も見えていないのだろう。
かすかに光を感じる程度しか。
「あなたに振られたときは、本当に傷ついた。あなたがわたしのことを想ってくれていたからだと、わかってからでも感情を抑えられなくて、酷いことを言っちゃった。だけど、本心じゃなかったの……。わたしは今でも、あなたのことが好きよ」
キクナは最期の力を振り絞って、手を差し出した。
「仮面を取って見せて」
ジョンは紐を解き、キクナの手を自分の頬にかざした。
「泣いているのね。あなたが泣いているところを、はじめて見た」
そう言われ、ジョンは自分が泣いているのだとはじめて気づいた。
涙を流すのはいつぶりだろうか。
自分は生まれてこのかた、泣いたことがあっただろうか。
父親を殺したときも、母親が自分の罪をかぶり警察に連れて行かれたときも、自分は泣かなかったと思う。
感情というものが欠落していると、自分でも理解していた。
泣くことができるのは人間だけだ。
なら、涙を流している自分は、まだ人間だと言えるのだろうか。
「わたしのために泣いてくれているの……?」
キクナの腕の力が抜けた。
手を放せば、崩れ落ちるのだと理解した。
「それだけで、わたしは満足よ……。わたしが死んで悲しいって思ってくれるくらいには、大切にされていた証拠だもの――」
ジョンは止めようのない涙を必死に堪えながら、何度もうなずいた。
「わたしが死んだあと、ある人たちに手紙を書いて欲しいの……」
キクナが自分の口で伝えることのできない、最期のメッセージ。
「ああ、なんて書けばいい?」
キクナは最期の力を振り絞り、言葉をジョンに託した。ジョンはキクナの口に耳を寄せて、かすれて聞き取りずらい言葉を懸命に読み取った。
伝え終えると同時にキクナの命は尽きた。生命の光が消える瀬戸際、ジョンは偽りではない正直な想いをキクナに伝えた。
「ああ、任せてくれ。必ず伝えよう。お休み――そして、愛してるよ。これから先の人生。おまえ以上に愛する人など、現れない。私を好きになってくれて、ありがとう――」
聞こえていたかどうかはわからない。朦朧とする意識の中、聞こえていたとしても理解できていなかったかもしれない。けれど、キクナは確かに微笑んでいた。それは見まがうことのない、現実だった――。
*
完全武装した特殊部隊は、不自然に連なりながら倒れる黒服たちの姿を見つけた。皆、一目散に逃げだしたかのように連なり、うつ伏せの態勢で倒れていた。
どこからか逃げ出してきて催眠ガスに力尽きたという様子だった。倒れた黒服たちの辿っていくにつれて、人数が多くなっていく。
一か所に集まり過ぎている。
これは、ただ事ではないと誰もが感じた。
催眠ガスが効いて、皆意識を失っていることを確かめて、サエモンたちは進んだ。廊下の先はどこに繋がっているのだろうか。
しばらく進んで行くと、豪奢なとびらの前に行きついた。このとびらの他に、とびららしき物はない。つまり、廊下に倒れていた黒服たちはこの先から逃げてきたことになる。
サエモンは仲間たちにサインを送った。
気を引き締め、皆は銃を構える。三、二、一、突撃の合図を送ると、とびらは蹴破られ、一斉に中に突撃した。
けれど、すぐに止まることになる。
とびらを開けてすぐに巨大な階段に差し当たった。
この部屋はホールになっているのだ。
とても巨大な大階段で、全長六メートル以上あるだろう。階段に気付かずにそのまま突っ込んでいれば、待っ逆正になだれ落ちていた。
サエモンは部下たちを、手で制しながら辺りを見渡した。薄暗くて、ホールの中は良く見えない。その中をキクマは一足先に歩み出した。
「待ちなさい」
サエモンの呼び止めも聞かずに、キクマは階段を下ってゆく。
仕方なく、サエモンも仲間を引きつれキクマの後を追った。
踊り場に差し掛かったとき、誰もがその人物の姿をホールの中央にとらえていた。月明りはまるでスポットライトのように、ただその人物だけを照らしている。
その人物はしゃがみ込み、悲観にくれるように影を帯びた背中。何かを愛おしそうに、抱きかかえている。
サエモンは部下たちにサインを送った。
そのサインを見るや、銃を一斉に構える。
探りを入れるような、肉食動物が獲物の背後にゆっくりと迫るような足取りで、サエモンたちは進んだ。
近づくにつれて、その人物が男であることがわかった。
サエモンは男の背中に拳銃を構えて、言い放つ。
「手をあげて、立ちなさい」
男はうろたえることなく、ゆっくりと立ち上がった。男の抱いているものが、人であるとわかるのに時間はかからなかった。
大人のものでない華奢な足が、男の腕から投げ出されている。子どもの足だ。ピクリとも動かない。誰もが不審に思った。このようなところに子供がいること自体がおかしい。
男は子供を抱えたまま、手をあげようとしなかった。
「その子を下しなさい」
けれど、男は子供を下さなかった。
「下ろしなさい。さもないと、撃ちます」
サエモンはもう一度強く言い放った。嘘ではなく、本当に撃つ決心をしている。
けれど、男は言いつけを無視して、ゆっくりと振り返る。サエモンはトリガーにかける指の力を強めた。
月の光が男と、男の抱える子供を照らし出し、サエモンは理解した。この男はラッキーだ、と。どうして、このような場所に一人でいるのだろうか。
サエモンたちはラッキーが抱えている子供に視線を奪われ、トリガーを引くことを忘れていた。少女だった。月の光に照らされて、白い肌がより一層死んでいるかのように青白く見える。
少女は余りに作り物めいていて、本当に死んでいるのだとわかるのに時間がかかった。裸の少女の左胸から、一筋の血が伝っているのを見てやっと気付けたのだ。人形じゃない、と。
少女は死んでいる。人間離れした白さだと思ったのもそのはず、少女はすでに生きていない。そして、ラッキーは少女の亡骸を抱えて自分たちに向かい合っていた。
武器も何も所持していないにもかかわらず、その姿には口では言い表すことのできない、力が垣間見えた。
「そこをどいてくれ」
低いかすれた声で、ラッキーはサエモンたちに言い放つ。
「おまえはラッキー。ラッキー・ルチアーノだな。おまえを捕まえに来た。おまえの部下たちも、もう始末した後だ。おとなしく連行されるなら、手荒な真似はしない」
「そこをどいてくれ」
「聞こえなかったのか? 抵抗するなら、撃つ」
「抵抗などしない。この子に……この子に羽織るものを取に行きたいだけだ」
サエモンはラッキーに銃を構えたまま、少女を見た。
いったい、何があったというのだろうか。
辺りには肉片らしき塊や、天井から落ちてきたであろうシャンデリアの破片が、撒菱のように散乱している凄惨な光景を想像することができない。
このホールでつい先ほどまで、何かが起きていたことは疑いようがないが、何が起きていたのかはわからない。ラッキーの眼を睨みつけるように見つめた。
「わかった」
ラッキーの背後に回り込み、サエモンは銃を突きつけた。
「私が後に続く。これをかぶれ」
ラッキーに防毒マスクを渡した。
サエモンを一瞥して、ラッキーは片手で器用にマスクをかぶる。
ラッキーは慣れた様子で、廊下を進みある部屋の前で立ち止まった。部屋の中は、綺麗にかたずけられており、本棚が置かれ、棚の上いっぱいにテディーベアが飾られていた。
色々な衣装を着たテディーベアが、几帳面に並べられている。マフィアのアジトにふさわしくない部屋だった。まるで女の子の部屋だ。
ラッキーはクローゼットを開けて、中からブランケットのような物を取り出した。ラッキーは丁寧に芸術品を扱うように、ブランケットで少女をくるんだ。サエモンたちには理解のできない行動だ。
「彼女を手厚く葬りたい。了承してくれるなら、僕はおとなしくきみ達について行くと誓う」
何かを企んでいるというふうには思えない。
ラッキーの表情は本当に少女を悼んでいるようだった。
今までどれほどの人を殺してきたのかは数えようのない、悪魔のような男だったが、確かに眼の前にいる男は一人の少女を想い泣いている、一人の人間だった。
悪魔も涙を流すのだ。
その証拠に、涙の筋が白く頬に残っていた――。