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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
241/323

case202 強く、気高く、美しかった少女

 獣は己の心臓を右手で抑え、呆然と立ち止まる。痛みを感じている様子は見受けられない。アドレナリンで痛みを感じていないのか、それとも怪物となったことで、痛みという感覚がなくなってしまったのかはわからない。


 けれど、己の体に起こった変化は感じた様子だった。獣は銀色の体毛で覆われた左胸を抑えたまま、膝をついた。


 その目には、失われていたはずの知性が戻っていることをジョンは感じ取った。今は獣ではなくレムレースなのだ、と。


「わたし、ここで死んじゃうのね」


 布か何かで口を塞がれているかのようなくぐもった声で、レムレースはつぶやいた。その声は何事もなかったように、平坦で感情の起伏のないゆったりとした物言いだった。まるで、他人事のようですらある。


「れ……レムレース……い、意識が戻ったんだね……」


 レムレースの姿は徐々に、小さくなり、人間の原型に戻りはじめていた。ジョンはもう一度、銃を構えトリガーに力を込める。何が起こるかわからない、とどめは確実に刺さなければ。


「やめろッ!」


 ラッキーはジョンに銃口を向けた。


「もう、決着はついただろう」


 ジョンはラッキーを見すえて、レムレースに視線を戻した。屈強な体つきの獣は、華奢な少女に戻っている。服は裂け丸裸の少女は、月明りに照らされてその白い肌は作り物の陶器のようで、妖艶に輝いていた。


 蝋燭の炎が消える直前、最後の力を燃やし尽くすように、瀕死の少女はこの世のものとは思えないほどに美しい。


「レムレース……」


 長年の勘で、ほっておいてもレムレースの命の灯は間もなく消えることがわかる。とどめを刺すまでもない。



 ジョンにしては珍しく、最後の詰めを抜いた。情という人間の感情が自分にも残っていたのかもしれない。ジョンは拳銃を下し、となりで倒れるキクナに目を止める。


 意識は保っているが、もう助からないとわかった。首筋から流れ出る血はとめどなく、刻一刻と命の炎を削り取ってゆく。


 今ホールの中で、二つの命が消えようとしていた。

 キクナはかすんだ瞳で、ジョンを見据えていた。何かを訴えて掛けているような瞳で。意志をくみ取ろうと、ジョンはゆっくりと歩み寄り、キクナをその腕に抱いた。流血を少しでも遅らせようと、首筋を抑えるが次から次に指の間から溢れ出る血に限度はなかった。


 責められるのだろうということは覚悟していた。

 キクナには責める権利があるし、自分には責められなければならない理由がある。自分と関わり合いになってしまったがために、キクナは死ぬ羽目になったのだから。キクナは自分を責めなければならない。


 所詮、生きとし生ける者は最期は皆死ぬ。だが、死に方と天から与えられ寿命がある。キクナはどちらも選ぶことができず、早すぎた。その原因を作ったのは、誰が証言しようと、間違いなく自分だ。


 まだ若い彼女には今からの人生があった。けれど、その人生を急激に縮めてしまったのは自分だった。どんな罵倒を言われようと、自分はこれから一生、背負って行かなければならないカインの印しなのだから。

 

 


 ラッキーは怒りに任せて、引き金を引いてしまいたかった。

 どうして、これほどイラついているのか自分でも理解できなかったが、どうしようもなくこの殺人鬼が憎かったのだ。獣の力を完全にコントロールしていたレムレースが負けるはずがないと、高をくくっていた。


 けれど、獣の力はコントロールなどできていなかった。

 彼女ですらコントロールできないのであれば、誰がこの力を受け継ごうと不可能だろう。人間には手に余る力だったのだ。現代人よりも精神力が強かったであろう、古代の人々が力を封印した理由がやっとわかった。


 人間には余る力だと。

 引き金にもう少しの力をかければ、殺人鬼の頭に風穴を開けることができただろう。けれど、ラッキーは力なく拳銃を落とし、レムレースに向き直った。


 ラッキーはレムレースの下まで歩み寄り、その華奢な肩を抱き寄せた。重力がなくなってしまったかのように、少女は軽く、そして、この世の者とは思えないほどに美しかった。


 左胸から流れ出る真っ赤な鮮血が、少女の白い肌を伝い、作り物でないことを明白にした。命尽きようとしているにもかかわらず、少女は安らかな顔をしている。


「苦しくないのかい?」


 訊くと、少女はいつもの人を小馬鹿にするような笑みではなく、今まで見たこともない清々とした微笑みを浮かべた。


「そうね――。苦しくはないわ。きっと、麻痺しちゃっているのよ――。神様がこんなわたしにも最期の慈悲を与えてくれたのね」


 そういう少女の声は弱々しかった。

 耳を澄まさなければ聞き取れないほどに、弱々しい。


「負けちゃったのね。わたし――」


 少女はラッキーを見るでもなく、窓から見える月に魅せられていた。


「負けるはずないって思っていたのに――。これも、自業自得というものだわ」


 少女は自嘲気味に含み笑いをした。


「きみはよく頑張った……」


「泣いてるの? あなたにも人間らしい心が残っていたのね。やっぱり、人間は人間を捨てられないのよ」


 ラッキーは青白くなった少女の頬に触れた。

 氷のように冷たく、陶器のようにすべすべしていた。


「わたしを想って泣いてくれているの?」


 ラッキーは言葉を発することができなかった。

 込み上げてくる嗚咽が、ラッキーに言葉を発することを許さない。

 自分はこの少女に酷いことをしてしまったのだ。どれだけ償おうと、決して償うことができないことをしてしまった。


 けれど、自分がしたことに後悔はない。

 後悔すれば、今まで犠牲にしてきた命に顔向けができないからだ。

 少女との出会いは、雪の降るとても寒い日だった。


 自分の下に、北の研究所で異変が起きたと知らせが届いた。自分は急いで研究所に駆け付けた。研究所は悲惨なことになっていた。研究所で働いていた研究者や、被験体の子供たちは皆、殺されていた。


 唯一生き残っていたのが、彼女だった。

 ラッキーにはすぐにわかった、目の前にいる白い少女がこの現状を引き起こした張本人だと。それ以来、ラッキーは少女に魅せられた。この子が、研究の集大成だと確信した。


 冷酷で残虐で、人を殺すことをためらわない。

 それでいて、賢く、合理的。

 ラッキーが探し求めていた獣そのものだ。


 ラッキーは少女を保護し、ピエール議員に研究所で起こったことをもみ消してもらった。あれから、一年と半年ラッキーは少女の魅力により一層魅せられていった。決して人に馴れない孤高の狼のように、少女は強く気高く、美しかった。


 神が創りだした、新人類。

 人と獣のハイブリッド。

 これからの人類を導いていく人物だと、ラッキーは確信した。


 けれど、一緒に過ごせば過ごす程に、少女が愛おしくなる一方だった。被験体ということも忘れて、ラッキーは自分の娘のように少女を溺愛してしまった。


「ごめんなさいね。期待に添えなくて――」


 ラッキーは強く首を振る。


「いや……きみは僕の期待に十二分に答えてくれたよ……。ありがとう――」


 月に向けていた視線をラッキーに戻し、少女は手を差し出した。か弱く華奢で小枝のような指が、ラッキーの頬に触れる。


「そう――それはよかった。最期にこれだけ守ってくれるかしら?」


「ああ――。なんだい?」


「弟にはもう手を出さないであげて。わたしでも無理だったんですもの、彼にわたしの代わりが務まるわけないわ。それに彼は自分の居場所を見つけたのよ。もう、わたしなんて必要ない」


 ラッキーは知っていた。少女はずっと、弟を想い続けていたことを。いつか記憶を失う前のように、弟と共に暮らすことを夢見ていた。けれど、夢は叶わず、少女は逝く。


「わかった……約束しよう。きみの弟には手を出さない。金輪際」


 安心したように少女は微笑んだ。ラッキーの頬に添えられていた、手から力が抜けて、命の灯は燃え尽きた。ラッキーは少し重くなった、少女をづっと抱きしめていた――。

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