case200 トリニカ
とても穏やかにミロルは眠っている。
まるで死んでいるようだ。
突如日常が変わってしまったあの日の一件以来、ミロルは目覚めない。
医者は二度と目覚めない可能性もあると、深刻な顔でセレナたちに説明した。今でこそ少しは心の整理がついたが、聞いた直後は朝の来ない世界のように暗黒に染まった。
呼吸は一定で、穏やかなのにどうして目覚めないのだろうか。何が原因なのだろうか? セレナにはわからない。
五日前、自分たちにとってこの世のすべてだった生活が、突如ひっくり返った。あまりに突然のことで、整理がつくまで時間を要した。
タダイ神父は地下室で亡くなり、ミロルは目覚めなくなった。ニックはどこかに連れて行かれ、そして今自分たちはトリニカ病院というところで暮らしている。
サエモンという男が手を回してくれているらしく、衣食住すべてがそろっていた。
ルベニア教会の子供たちはどうしているのだろうか?
ふと、そんなことを考える。
何よりも、心配なのは連れて行かれたニックの安否だ。
思い出すだけでも体の内側から震えが沸き起こる。あの怪物の姿。心ではわかっている。ニックが自分たちを襲わない、ということは。けれど、草食動物が本能で肉食動物を恐れるように、絶対的な捕食者の存在は人間の本能に危険を告げた。
どうして、ニックがあのような姿になってしまったのかは知る由もない。けれど、昔に、自分たちに会うよりも前にニックの身に何かが起こったことは確かだと思った。
ニックはミロルを助け出し、撃たれた。
それから、安否も知らされず今に至っている。
「セレナ姉ちゃん、何怖い顔してるの?」
となりで絵本の絵を眺めていたアノンが、口をついた。
「あ、んん、何でもない。ただちょっと考え事してて」
「そうなの……」
アノンはセレナを案じるように、少し顔を曇らせる。
「あんまり、気に病むことはない。これから、どうなるのかわからないけど、今までだってなるようになってきたんだから、これからだってどうとでもなるさ」
やさしい声でセレナを励ましたのは、アノンでもカノンでもなかった。窓際のベッドの上で横になるチャップが発した言葉だ。
「そうね」
悲嘆に歪む顔を無理にでも微笑ませ、セレナはうなずいた。
「なるようになるわよね。あのサエモンって人も怖そうだけど、悪い人ではなさそうだもの」
「俺が意識を失っている間に何があったんだ? あのサエモンって人も詳しく教えてくれなかったし、おまえ達にも聞く機会を逃して、今も何で俺が治療を受けているのかわからないんだよ」
三人の顔が曇った。
知らないのなら、教えない方がチャップのためかもしれない。
「隠さないで教えてくれよ。どうんな荒唐無稽な話をされても、大抵のことは受け入れる広い心を持ってるんだからよ」
セレナは意を決し、チャップが気を失っている間に起きたことをすべて話した。獣になったニックのこと、ルベニア教会で行われていたであろう実験のこと、自分が知らされたすべてのことを打ち明けた。
「そうか。ニックがな。たまに人間離れした運動神経を見せることがあったけど、そういう事情があったのか」
心当たりがあるようで、チャップはそれほど驚かなかった。
「もしかして、それでこれからのニックとの付き合い方に、悩んでるんじゃないだろうな?」
三人は口をすぼめ、顔を陰らせた。
そんな三人を見て、チャップは呆れたようにため息をつき肩を上げた。
「たとえ、化け物でもニックは俺たちの家族だ。あの日、あのとき、俺たちは家族になったんだ。姿形が違うだけで、おまえ達はニックを突き放すのか? 違うだろ。セレナ、アノン、カノン、ミロル、ニック、そして俺」
そういって、チャップは親指を立てて、自分の胸を突いた。
「俺たち、血は繋がってないけど、そんじょそこらの家族よりも強い絆で結ばれた家族なんだ」
*
ニックは窓の外を眺めている。他にすることがないので、流れる雲を眺め、雲がどのような物に類似するかを想像することしか、やることがないので仕方なく眺めていた。
そのとき、背後から声をかけられニックはベッドから転げ落ちそうになった。
「お待たせしました」
ニックはむすっとした顔で、男を見返す。
サエモンだった。
「そう怖い顔をしないでください。朗報を持ってきました」
けれど、ニックの表情は和まない。
「みんなに会いたくありませんか?」
ニックは驚きに目を見開き、ベッドギリギリに寄った。
「みんなって……?」
「あなたと仲がよかった子供たちです。けれど、これは交換条件ですけど」
輝いたニックの表情に再び陰りが差す。
「私たちの提案にうなずいてくれるのなら、いつでも会わして差し上げましょう」
何を自分は迷っているんだ。
みんなに会えるなら、どんな提案でも飲んでやる。迷いは一瞬だった。ニックは「わかった、だから合わせてよ」とサエモンにいった。サエモンは狐のように目を細め、微笑んだ。
「ニックくんあなたを私たちの管理下に置きます」
「管理下……?」
単語がわからない訳ではなかったが、不意に口をついて出た言葉はオウムのように反復することだった。
「はい。あなたは獣のDNAを移植されているのです。あなたは北の研究所から逃げ出したのだそうです」
その話はタダイ神父がニックに語った話と、類似しているように思われた。ニックの体は拒絶反応を示す。
おれはやっていない。
おれはやっていない。
「北のバイオ研究所で働いていた職員は皆、殺されていたそうです」
「おれがやったんじゃないッ」
突発的に心の中の言葉が、押し出された。
サエモンはニックの目を真っすぐに見つめ「わかっています」となぐされるようにいった。
「やったのは、あなたではありません。表向きは野菜の品質向上を謳っていたバイオ研究所でしたが、裏では人間のDNAに動物のDNAを移植して、生物兵器を作っていたのです。その研究所には多くの子供が集められ、日夜人間のエゴに付き合わされていたのでしょう」
同情するようにサエモンの声に暗みが増す。
「ある日、悲惨な事件が子供たちを地獄のような生活から解放したといえるでしょう。その研究所にいた職員含め、子供も皆殺されてしまったのです。
表上は一人の研究者が、精神に異常をきたし同僚たちを道連れにしての無理心中だと処理されました。実験台にされていた、子供たちの死体は跡形もなくなくなっていたそうです。ジェノベーゼがピエール議員の力を使い、早急に手を回したのでしょう」
瞬きするのも忘れて、ニックはサエモンの話に聞き入っていた。
「そして、孤児であるあなたともう一人、姉はその研究所で実験台にされていた一人です」
「姉? やっぱりおれには姉がいたの?」
サエモンはうなずいた。
その後に続いた言葉は今聞いた話よりも、衝撃的なものだった。
「けれど、もうこの世にはいません。そのバイオ研究所の職員を殺したのは、あなたの間違いなく姉です。子供が大の大人を虐殺できるとは考えずらい。あなたの姉も、あなたと同じく実験によって生み出された適合者だったのです」
ニックは首を落として、自分の中に巣づ食う化け物を責めた。
「どうして、そのようなことをしたのか本人が死んでしまった今ではわかりません。あってはならないことですが、もしかすと、死という形で子供たちを地獄のような生活から解放したつもりなのかもしれませんし、ただただ力に我を失い、及んだ犯行なのかもしれません」
ニックは夢で見た悲惨な光景を思い出し、吐き気を催し口を押えた。
あの光景を引き起こした姉と自分の血が繋がっているとなると、自分にもあのような残虐性が備わっているということになるのだろうか。自分が暴走して、大切な人を傷つけてしまうことをニックは何よりも恐れた。
「きみたちのような子供たちを二度と生み出さないために、今我々組織がこの国にあるジェノベーゼの手の回る研究室を片っ端から、潰しています。そして、その実験の生き残りはニックくん、あなただけなのです。
ジェノベーゼの残党は、あなたを捜している。我々にあなたを保護させてください」
サエモンはニックの両肩に手をそえた。
「詳しくは、皆の下に向かいながら話しましょう」