case199 最期の交渉
防毒で顔を覆い、AKライフルを携えた人々が四方八方を見つめ、警戒をあらわにしている。催眠ガスが館中を行きわたり、モクモクと幻視的な光景が立ち込めていた。
長い廊下を歩いていると、催眠ガスでやられたであろう黒服たちが地に突っ伏しいる姿を見かける。煙と薄暗いランプの灯りだけでは、視界がハッキリしなかった。
「ラッキーの居場所はどこですか?」
防毒マスクをかぶったサエモンは、メイドの背に銃を突き付けて訊ねた。メイドの華奢な肩が緊張に震える。
「だ、旦那様のへ、部屋に案内しております……」
防毒マスク越しで、メイドの声はくぐもっていた。
サエモンたちはメイドの後に続き、二階に続く階段を登った。
あえて時間をかけているかのように、メイドの動きはゆっくりだ。
「もっと、早く案内してください」
サエモンは急かす。
窓から差し込む月明りは、赤みを帯びている。空気中を漂う煙の粒子に、光が屈折して、オーロラのような光の帯ができていた。
けれど、サエモンたちはそのような幻想的な光景に目を止めないのではなく、目に止まらなかった。
「も、もうすぐです……」
焦る気持ちを抑えて、メイドの後に続き間もなく、足が止まった。
「ここです……」
メイドが教えたその部屋は、確かに他と一線を画す豪華な装飾品で覆われたとびらがついていた。部隊の皆に突撃の合図を送り、サエモンはとびらの前で銃を構えた。
とびらのノブが破壊され、留め金が外れたようにとびらはわずかに開く。サエモンはとびらを蹴破り、勢いのまま室内に突撃する。
「動くなッ!」
銃を携え、部屋の中を見渡した。
部屋の中は真っ暗で、人の気配が感じられない。
ゆっくりと部屋の中央に歩み寄る。想像していたよりも質素な部屋。ベッドが壁に沿うように置かれており、反対側に大きな本棚と机が置かれている以外に、装飾品は何もない。ただ、眠るためだけに使っている、という印象を受けた。
「チーフ。ラッキーはいません」
部下の一人が言った。
言われるまでもなく、見ればわかる。
ベッドに乱れはなく、温もりも感じられない。はじめから部屋にいなかったのか、それともメイドが嘘の部屋を教えた、という可能性もある。
はたまた、危険を察知して、逃げ出してしまった後なのか。
だとしたら、不味いことになった。
他のグループがラッキーを捕らえているとよいが。
「本当にここが、ボスの部屋ですか?」
メイドは体を硬直させて、震えながら答えた。
「は、はい……そうです……。や、館に……侵入者が入ったと騒いでおりました……。皆様はその侵入者を捕えるため、館内を巡回しているはずです。もしかすると、旦那様もご一緒に行動されているのかもしれません……」
侵入者とはジョン・ドゥのことだ。
そういえば、ここに来るまでに倒れていた黒服たちの数がしれていた。これほど、巨大な館だ。もっと、見張りがいていいはず。一体、後の見張りはどこに消えてしまったのだろう。
大人数を収容できる場所……。
思いつく場所は一か所しかなかった――。
*
ウイックはダッシュボードの上に足を載せただらしない体勢で、館を臨んでいた。
「まったく、何で俺まで駆り出されなきゃなんねえんだよ」
誰に言うでもないが、つまらなさそうにウイックは一人ごちる。
車で待っていてもいいなら、別に自分が同行する必要もなかったのだ。眠って待とうにも、座席シートは固く、小さく、狭い。こんなところで、熟睡できるはずがなかった。
今ごろ館の中では、何人もの死者が出ているのだろう。
この歳になってまで、争いに首を突っ込むこともない。自分には、もう力はないのだから。第二次世界大戦と共に、自分に宿っていた獣の力は失われた。
いや、失われたのではなく、使えなくなったという方が正しいかもしれない。ハッキリしたことはわからないが、自分の意志が獣に勝り、体の中の化け物を撃ち消したのだろう。
だから、今の自分は生身の人間も同然だった。
ナイフで切られれば痛いし、銃で撃たれれば死ぬ。
当然のことだが、当然ではなかった。
座席にふんぞり返り、物思いにふけっていたとき、フェンスを乗り越える人影をウイックは捉えた。館の者なら、わざわざフェンスを乗り越えなくても正面から出ればいい。
なら、誰だ。
ウイックは外に出た。
目を凝らし、フェンス上の人物を見上げる。よく見ると、その影は一人ではない。華奢なシルエットを横抱きにして、もう一人。
「おまえは誰だ?」
フェンスの上に絶妙なバランスで立つ、影に問う。
影の顔がゆっくりと動き、ウイックを視界にとらえると同時に飛び降りた。真上だ。このままでは、ぶつかる。とっさに判断したウイックは、背後に飛びのいた。
飛びのいてから、一秒と経たぬうちに影はウイックが立っていた場所に降り立っている。月明りに照らされて、その影の腕にはキラリと光るものを見た。
ナイフだ。もし、ウイックの判断があとわずかに遅れていれば、頭頂にナイフを突き立てられていた。
「おいおいおいおい。せっかく、命が惜しくて残ったって言うのによ。まだ神は俺に試練を与えるって言うのか」
ウイックは直感的に悟った。
こいつが、ジョン・ドゥだ、と。昔の自分ならともかく、今の自分がどこまで対抗できるだろうか。懐に拳銃がある。相手はナイフ、それと誰かを抱いている。女だ。血まみれの女を抱いていた。顔までは見えないが、確かに女であることは確かだ。
月が雲からあらわれるまでに、決着はつくだろう。
ジョン・ドゥは人一人を抱えているというのに、その動きは人間離れしている。ナイフをかざし、ウイックは懐の拳銃をジョン・ドゥに突きつける。
一発発砲したが落ち葉の如くひらりとかわし、ウイックのみぞおち付近、左胸にナイフを突き刺した。ナイフの刃先がチクリと左胸を突く。
サエモンから防弾チョッキを渡されていなければ、死んでいただろう。命拾いしたと神ならぬ、サエモンに感謝していたとき、「やめなさい」という、しわがれた男の声が二人を止めた。
ジョン・ドゥは返す手でナイフを振り下ろそうとしていた最中だった。ウイックの眼と鼻の先まで迫っているナイフ。
そしてウイックも、銃を構え、後はトリガーを引けば必ず命中する距離だった。このまま続けていれば、相打ちになっていただろう。
二人の決闘を止めた者は、ワイヤーのようなものを伝って、フェンスを乗り越えこちら側に着地した。
月は隠れ、シルエットしか見えないが、その声をウイックは以前にも聞いたことがあることを思い出す。
「おまえは……」
ウイックがいうと、その男は人差し指を口にかざした。
「久しぶりだね。ウイック君。申し訳ないが、見逃してくれないか。今のきみでは、彼には勝てない。無難な判断だと思うよ。ジョン・ドゥは今日この日をもって死んだ。この街から、ジョン・ドゥの犯罪はなくなる。だから頼む」
「おまえが絡んでいたのか。この殺人鬼を手なずけていたのは、おまえだったんだな、ジンバよ」
「辞めてから、会うのは一、二年年ぶりだろうか」
「そんなこと知るか」
「冷たいことだな。見逃してくれないのか」
ジンバという男は、圧のある声でいった。
トリガーにかけている力を、ゆっくりと強める。
「嫌だね」
「きみにしては賢明じゃないな。今のきみは生身の人間だ。死にたいのか?」
ウイックは自嘲気な含み笑いを浮かべた。
「こっちはハジキだ。ナイフが俺の下に届くまでに、弾丸が殺人鬼の心臓を貫くぞ」
「試して、みるか?」
ウイックの指にかかる力が強まる。
緊張がピークに達した。
汗がこめかみを滴り、顎の先で一つになった。
「わかった。取引だ。――金輪際、この街で悪さを働くな。約束を破れば、おまえを捕まえる。面は割れてんだ。おまえを捕まえるなんざあ、容易いことだぜ」
ジンバは得心したように笑った。
「約束を守ろう。こちらからも、一つ条件を出したい」
ウイックは拳銃を懐にしまい、肩をすくめる。
「聞こう」
「我々を見たということは他言しないで欲しい」
「わかった。それだけか?」
「それだけだ」
「田舎で余生を楽しむんだな」
「ああ、そうさせてもらう」
ウイックが車に戻ったときには、ジンバたちの姿はどこにもなかった――。