case197 禁断の知識
肉食動物が獲物を仕留めるときには必ず首を狙う。
この法則はどの肉食動物でも共通すること。
なぜなら、柔い首は最大の弱点となるから。
キクナは両手で口を塞ぎ、込み上げてくる胃酸を必死に堪えた。レムレースに首を噛まれた黒服は、痛みを感じる暇もなく即死した。軟骨を噛み砕くときのような、ゴリゴリとした音が異様に大きく、生々しく聴こえた。
飛び散る血しぶきが狼のような、レムレースの顔を真っ赤に染める。シャンデリアから飛び出た燭台が背中に刺さったまま、引きずる。
レムレースを助け出そうとしていた黒服たち二人は、腰が抜けたように尻もちをつき、目に見えて震えていた。
必死に距離を取ろうと、何度も立ち上がろうとするものの、酔っぱらった人が千鳥足になるように起き上がることはできない。四つ這いで、距離を取ろうと努力する。
レムレースは骨まで噛み砕き、黒服の両肩を持ったまま頭から捕食してゆく。キクナはとうとう、堪え切れずに内容物を吐き出した。すでに夕食は殆ど消化されており、白と黄土色が混ざったような胃液だけだ。
いったい……どうして、レムレースは人間を――、仲間を喰っているのだろう……。これは夢などではない……実際に今この場で起きている現実だ。
脳まで食いつくし、甲殻類の殻を捨てるように黒服を捨てた。
暗黒の瞳は、距離と取ろうと這いずる二人の黒服に向けられた。
足を二人に向けたとき、自分の背中に鎖のようにして突き刺さる燭台に気付く。長い鼻に忌々しそうに皺を寄せ、叫んだ。
その叫びに知性はなく、獣が雄たけびを上げるときのよう。
その体を操っているのは、もはやレムレースではない。レムレースは獣に飲み込まれてしまったのだ。人間ではない、野性の叫び。
獣は己の体を拘束する、燭台を掴み、肉がえぐれるのも構わずに引き抜いた。痛覚が欠落してしまったのか、躊躇はない。
背中に突き刺さった燭台をすべて引き抜き、北欧神話でフェンリルを封じ込めていた鎖が解き放たれたときのように、レムレースは呪縛から解放された。キクナが獣に魅入っている間に、ジョンは前方から姿を消していた。
獣が新たな獲物を捕獲しようと腕を伸ばしたとき、天からジョンが降り立ち、伸ばされた獣の腕にナイフを振り下ろす。
ナイフは剛毛を切り裂き、腕の半分まで刃が到達した。
渾身の力で振り下ろしたにもかかわらず、獣の腕を切断することはできない。ジョンは更に力を込めるも、ナイフは骨に阻まれたのか一向に動く気配を見せなかった。
獣はまるで目障りな虫でも払うかのように、ジョンを跳ね飛ばした。ジョンは重力を無視して、吹き飛ばされる。
獣になってしまったレムレースには獲物にか見えていない。本能に突き動かされる獣そのものだ。
邪魔者がいなくなり、獣は改めて黒服の足首を掴み上げた。逆さ吊りにされた黒服は、恐怖で死人のようになった顔を涙と鼻水でずくずくに汚す。
「レムレースッ、やめるんだッ」
ラッキーはその優美な声が、枯れてしまうほどの大声で叫んだ。
「仲間だぞッ。一体どうしたんだッ!」
けれど、ラッキーの声は獣には届いていない。
ラッキーに眼をくれることなく、黒服をうつ伏せに押し倒し、柔らかく湾曲する首に喰らいついた。黒服は恐怖に叫びを上げることもできずに、絶命した。
首を断ち切り、頭を喰らう。
見る見るうちに傷口が癒えているのがわかった。
「どうして……獣は完全にコントロールできていたはず……」
ラッキーは先細る声で、つぶやいたとき、「だから、言ったではないか」ホールの大階段の上から、しわがれた男の声が降ってきた。
その人物は階段を下り、踊り場で立ち止まる。
「だから、獣をコントロールするなど無理だと言ったんだ。きみは気付くのが遅すぎた」
ラッキーは動揺に揺れる瞳で、踊り場に視線を向ける。
「獣の力は人間などが、コントロールできる生易しいものではない。古の昔より、狂戦士をコントロールすることなどできなかった」
「そ、そんな、はずない……。彼女は……レムレースは力をコントロールしていた」
「コントロールしていた、つもりだった。獣はコントロールされているように見せていただけだ。確かに彼女は、常人を遥かにしのぐ精神力をもっていたのだろう。
けれど、死を目の前にして、彼女は揺らいだ。その心の隙に、獣は取り入った。もう、誰のいうことも、それどころか人間の言葉すら理解していない。獣だよ」
ラッキーは男のいうことを否定するように、首を振る。
「もう、終わりにしよう。これでわかっただろう。どうして古代の人々が、この技術を封印したかが。人間の手には余り過ぎる。この禁断の知識を再び封印しなければならないんだ」
獣は黒服を喰らい尽くし、新たな獲物を探す。
獲物はすぐに見つかった。腰を抜かしたまま、その場から動けずにいたもう一人の黒服。哀れな子羊を見すえ、狼は舌なめずりをする。
「助けて……助けて。こんな、こんなふうには死にたくない……」
神の如き絶対的な捕食者の前では、人間は家畜も同然。
「やめてくれ。レムレースッ! どうしてしまったんだ。敵はあっちだろうッ」
ラッキーは地に伏したジョンを指さした。
暗黒の瞳はラッキーの姿を捕える。
けれど、獣は何も感じていない。獣にとって最も大切なことは、食事なのだ。泣いて命乞いする仲間の首を、無残にへし折る獣。
ホールに溢れかえっていたラッキーの部下たちは、みな逃げていた。ランプの灯りも消え、頼れる灯りは窓から差し込む月光のみ。赤みを帯びた月明りは、通常の月よりも輝いていた。
顎でへし折った頭を噛み砕く。
キクナは黙って、人が喰われる光景を見ていることしかできない。
捕食し終えると、獣は更なる獲物を探す。
獣は新たなる獲物を見つけた。
それが自分だと悟るのに、キクナはそう時間はかからなかった。
足がすくんで逃げることができない。例え一刻、逃げられたとしても、逃げ切れるとは思わない。ゆっくりとした、確かな足取りで獣はキクナに迫る。
自分は肉食動物に喰われる、草食動物。
圧倒的絶望感。
あの顎で噛まれたら痛いんだろうな、とキクナは思った――。
獣の手が、キクナに伸びた――。