case196 人間ではない者たち
ガラスが粉々に砕かれ、拡散する余韻がホールをいつまでも漂っていた。ランプの灯りに照らされて、粉塵のような埃が舞っている。ホールにいる誰もが、何が起きたのかを理解するのに時間を要した。
怪物となったレムレースがジョンのナイフを掴み、その力で引き寄せようとした刹那、空からシャンデリアが降ってきた。突然の出来事に思考がついて来ない。
黒服のみならず、この事態にラッキーですら目を見開いている。
粉塵が晴れシャンデリアの下敷きになったレムレースの姿があらわれた。白目をむき、長い舌がだらりと垂れ、口からは血を流している。
シャンデリアを支えていたチェーンが断ち切れている。そのチェーンにピアノ線のような細い糸が巻かれていた。その糸を辿ってゆくと、レムレースが握りしめたナイフに行きつく。
レムレースがナイフを引っ張ったから落ちたのか?
けれど、厚いチェーンはちょっとやそっと引っ張っただけで千切れるはずがない。どうして……? キクナは一つだけ思い当たる節があった。ジョンは黒服から奪った銃で、ニ、三発天に向けて発砲した。
あのときは威嚇だと思っていたが、シャンデリアのチェーンを狙っていたのだ。けれど、この状況下であの針の穴に糸を通すような、精密な射撃ができるものだろうか。
辺りは薄暗く、極限のプレシャーの中で。
オリンピック選手だろうと、不可能に思われる。
だが、ジョンはその神業的芸当を、この状況でやり遂げたのだ。
もはやジョンも人間ではない。
これは怪物と怪物、獣と獣同士の闘いなのだとキクナは思い知らされた。この薄暗い中では、あの細い糸は見えない。
気付かれぬようジョンはナイフをシャンデリアのチェーンに巻き付け、レムレースの周りを何度も回っていた。あの行為には捕まらぬようにするためではなく、ちゃんとした意味があったのだ。
何度も回ることにより、回転の力を利用した。
何度もねじれることにより、チェーンに負荷がかかる。
後はレムレースをシャンデリアの下に引き付けておく。
ジョンのとる行動すべてに、意味はある。
「そ、そんな……なぜ、この程度で彼女がやられるはずがない……」
今まで冷静だったラッキーがはじめて、動揺を示す。
そのとき、黒服の一人がラッキーに耳打ちした。
「あのシャンデリアには……銀の燭台が使われていました……。お嬢様の体に燭台が突き刺さってしまわれています……」
「銀の燭台……」
苦悶にラッキーは言葉を失った。今までの話を聞いていた限り、レムレースの弱点は銀製品全般のようだ。
「な、何をボケっとしているのよッ」
静まり返ったホールにキクナの大音声が響き渡る。
「もう勝負はついたじゃないッ! 速くレムレースを助けないとッ」
ボケっとしている黒服たちの間をすり抜け、キクナは闘技場に躍り出た。そして、止めを刺そうと歩み寄るジョンの前にキクナは立ちはだかる。
「もう辞めて……勝負はついたじゃない」
ジョンは五メートルほど先で立ち止まった。
クラウンの仮面からは感情は感じられない。
ただただ、命じられた使命を全うする機械人形を彷彿とさせた。
ジョンは方向を変えて、キクナのとなりを通ろうとする。
その度にキクナも道をさえぎった。
脚がガタガタ震えている。ライオンやトラを前にしているかのようで、生きた心地がしなかった。キクナが知っているジョンではない。今までは心のどこかで、ジョンが殺人など犯すはずがない、と思っていた自分がいたが今は違う。
この人は顔色一つ変えずに、平気で人を殺せる人だ。
逃げ出したい、けれど、逃げてはダメだ。
言うなら今しかない。この機会を逃せば、もう二度と言う機会は巡って来ない。
トランシーバーから聴こえるノイズ音のような、かすれた声が出た。
「あ、あなたは私を面倒ごとに巻き込ませないために、私を振ったんでしょッ。思い上がらないでッ」
話している内に恐怖はなくなっていた。
今ならすべて言える。
「あなたみたいな男、他に誰が好いてくれるって言うのッ! あなたに私をふる権利なんてない。今この場で、私があなたを振るッ。はじめから……」
キクナはこぶしを握りしめ、食いしばった口を開いた。
「はじめから、あなたがこんな人だとわかっていれば、好きにはならなかったッ。あの日、あのとき、私を助けずにほってくれていればよかったのよッ」
自分でもわからぬうちに、目から涙が流れていた。
頬を伝って流れ落ちた涙が、自分の胸元に落ちてはじめて、自分が泣いているのだとわかった。
「べつに良心が咎めた訳じゃないんでしょッ」
今まで溜めていた鬱積をキクナは涙と共に吐き出す。
「それともやっぱり、あのときの男が言ったように見返りを期待していたのよッ。そんなことも知らずに、私は……私は……」
言いながら、自分の発した言葉を否定する自分もいる。
ジョンは見返りなど期待していなかった。名前も告げず、キクナにコートだけを渡しその場から立ち去ったのだ。自分を助けてくれたのがジョンだと気づいたのも、自分だ。
言っていることが矛盾していることなどわかっている。けれど、罵倒せずにはいられない。自分と食事をしたり、おしゃべりをしているときは、ちょっと暗いだけで、どこにでもいる男だと思っていた。
すべてを偽って、騙していたのだ。
母親に会いたい、と語ったことも、ジョンの口から出る言葉すべては偽りだった。そのことが何よりも悲しかった。
「あなたみたいな人殺し、こっちからまっぴらごめんよッ! さようなら。もうこれで出会うこともないわねッ」
勢いに任せて、キクナは思ってもいないことを口にした。
「あなたなんて死んでしまえばいいッ――」
違う……どうして、そんなこと言ってしまったのだろう。訂正したくとも、言葉が出てこなかった。唇は何度もパクパクと、から滑りする。
そのとき、シャンデリアの撤去作業に当たっていた黒服たちの悲鳴がこだました。キクナはとっさ的に振り返る。
「そ……そんな……」
息を飲んだ……。
レムレースは起き上がり、黒服の両肩を猛禽類が獲物を捕らえるように、握りしめ喰っていた――。黒服の首に噛み付いている、レムレースの眼には今までかすかに宿っていた知性の光は消えていた――。