case193 研究の集大成にして最高傑作
野獣という言葉は、この怪物のためにあるように思われた――。
銀色に輝く体毛、のぞく牙、鋭い爪、美しい曲線を描いた体。
恐ろしいという感情が湧く以前に、美しいと思った。
獣は喉を震わせ、笑う。不思議な感覚だった。口から発せられているというよりは、喉から直接言葉を発しているように思われる。
「怖い?」
その声は筒の中で発せられているように拡散して、まとまりがなかった。数人の人々がタイミングを合わせて同時に発音しているようでもある。
「死ぬのは怖い?」
獣はそう問いながら、ゆっくりとジョンに迫る。
ジョンは何を思うのだろう。圧倒的なプレシャーと恐怖を前に、泣き叫ぶこともなく、逃げるでもなく、銀のナイフを構え向かい合う。正に戦士。狩人。
レムレースである獣は人が変わったかのようだ。
死にたくない、と泣いていた少女はもうどこにもいない。
「わたしは死ぬのが怖い。だから死にたくないから、相手を先に殺す」
手を伸ばせば届く距離で、ジョンと獣が向かい合う。
身長は同じ。いや、獣は猫背気味になっているのだから、実際には獣の方が身長が高くなっていた。
目を輝かせながら、となりで獣を見ていたラッキーがつぶやく。
「狂戦士という存在を知っているかな?」
名称だけなら聞いたことがあった。その起源は北欧神話にあるという。ノルウェー語でberserk。獣の皮をかぶり、戦に興じた戦士たち。
「聞いたことがあるわ……」
「狂戦士というのは、軍神オーディンの神通力をうけた戦士のことだよ。危急の際には自分自身が熊や狼といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦ったという」
「だ、だけど、それは単なる妄想でしょ……。だけど……あれは……」
「狂戦士とは妄想ではなく、実在の存在だ。古代の人々は、すでに発見していたんだよ」
ラッキーはキクナを横目に見ながらいった。まるで自分のリアクションを楽しんでいるようで、キクナは腹が立った。
「発見していたって何を……?」
「狂戦士になる方法を、さ。なると言っても、狂戦士になるには天性の才がいる。大抵の者はそれに耐えきれず、命を落とすか、なりそこなってしまう」
「そ、そんな非科学的なこと……聞いたことないわ……」
「失われた技術だったんだよ。世界には失われた技術というものが、数多く存在しているんだ。中には現代科学ですら、照明できない技術も存在する。そのロストテクノロジーの一つが狂戦士だ」
この男は何を言っているのだろうか。
キクナは客観的に話を聞いていた自分の耳が、自分のものでないようでどこか遠く聞こえた。
「その失われた技術を、ビルマという科学者が再発見した。ここからは、さっきの続きだ。ビルマは強靭な体を持つ狼の研究をはじめた。数年にも及ぶ研究の結果、狼に似たそれは、100%人間と同じDNAを持っていることを突き止めた」
レムレースのナイフのように鋭い爪が、ジョンの首を狙う。
ジョンはナイフで軌道をそらす。
一進一退の攻防が繰り広げられている。
「チンパンジーですら、96%なのに対し、狼もどきは人間の遺伝子構造と一致した。ビルマ博士はあることに強い興味を示した。人間のDNAに狼のDNAを混ぜるとどうなるか? という学者的な知的好奇心だ」
レムレースの爪がジョンのコートを切り裂く。
獣は闘いの最中、爪に付着したジョンの血を舐めた。
「それはゲノム編集といった。近い将来、必ず確立される技術だよ。ビルマ博士は金に困っていた戸籍のない浮浪者に、多額の金を払い実験に協力するように頼んだ。男は了承した。狼もどきから採った細胞を、男の遺伝子に移植する」
レムレースは「美味しい」と笑った。あなたは今までに食べたどんな人間よりも、美味しいわ、と舌鼓を打ちながら恍惚に喉を鳴らす。
「すると、男の様子がゆっくりと、けれど確実に変わった。鼻は犬のように突き出し、骨格は四足歩行に特化した。ビルマ博士は研究に没頭した。ビルマ博士が亡くなったあとも、研究は意志を継ぐ者たちによって続けられた。その噂が政府の耳に止まり、生物兵器に利用されるようになった」
力では敵わないとわかっている、ジョンは攻撃を受け止めようとはしなかった。巨大化した体には、わずかだが隙ができる。ジョンはその隙をわずかだが、確実に突いていた。
皮膚が切れる程度の、わずかなダメージを積み重ねてゆく。
その姿はボクサーのジャブに似ていた。
ジャブを積み重ねてゆき、相手の体力を奪ってゆく。
「けれど、どこからかその情報が漏れてしまった。非人道的だという声が高まり、研究は中止された。表上はね。大国は僕たちに研究のデータを渡した。今では、僕たちのような裏社会の人間たちがビルマ博士の意志を受け継いでいるんだ」
止めなければ、こんな悲しい闘い。止めなければ……。
一度はじまってしまった戦争がそう簡単に収まらないように、二人の闘いはもはや戦争。どちらかが、消えるまで終わらない戦争だった。
「けれど本当の困難は、はじまったばかりだった。狼のDNAを移植しても、適合するものが現れなかった。適合できたとしても、獣に心を乗っ取られてしまう。
そんな諸刃の剣など、戦争では使えない。半世紀もの間、獣をどうコントロールするかという、世紀の問題を抱えた」
この調子で殺し合えば、数十分後にはどちらかが地に伏すことになるのは明白だった。
「なるべく若い方が適合できる確率が高いことを突き止めた。そして、獣をコントロールするには、アメとムチが必要であることもわかったんだ。子供たちに愛を与えなくても、与えすぎてもダメだということがね。そして一種の洗脳状態で獣をコントロールする」
レムレースが左足を蹴り上げた。
ジョンはよけきることができず、その蹴りを正面から受け吹き飛んだ。観客となっていた、黒服たち三人に激突して止まる。
「試行錯誤の末、誕生したのが彼女だ。彼女が研究の集大成。最高傑作。今後、彼女以上のバーサーカーが生まれるとは考えづらい。獣をコントロールできる唯一の新人類。獣の魂を一つの体に宿した、それが複数形の意味を持つ、レムレースだ――」