case192 ニックとサエモン
夢を見た――。
思い出せないけれど、とても悲しい夢を見た――。
誰かと永遠のお別れを告げるとても悲しい夢だった――。
ニックは昼下がりの、気持ちのよい風と共にとても静かに眼を覚ました。
まず目に飛び込んできたのは染み一つない純白の天井。大理石を研磨にかけて、鏡のようにしたような天井だ。
顔をかたむけると、レースが鼻さきをよぎる。
白いレースカーテンが、開け放たれた窓から流れ込む風に吹かれていた。窓から見える外一面、草原が広がり、車いすに乗った老人が日向に眼を細め、気持ちよさそうに目をつむった。
ルベニア教会から見える景色とは違う。ここはどこなのだろうか……。どうして自分はこんなところで眠っているのだろう……?
ニックは頭を抑えた。もこもこした感触が指先に伝わる。
包帯を巻かれているとわかった。そういえば、頭がズキズキと傷む。白いシーツを見つめ、しばらく記憶の断片を探っていると、やさしい茶色のとびらが開かれ、二人の男があらわれた。
「目覚めましたか」
ニックは男に視線をやった。
狐を擬人化したような、小ズルそうな顔をした男。
「どこか、傷むところはありませんか」
そういいながら狐面の男はベッド脇までやってきて、立てかけられていたパイプ椅子を組み立て、座った。ニックは警戒の色を強め、狐面の男を睨む。
「憶えていますか?」
言い男はしばらく黙っていたが、ニックが口を開かないと察し続けた。
「きみはルベニア教会から保護されたんですよ」
「保護……?」
ズキンと頭が痛んだ。
記憶が呼び起こされようとしている前兆なのだと、ニックは気付く。男はニックが思い出すのを待つかのように、しばらく話しかけてこなかった。
ド忘れしていたことを突如思い出すときの感覚に似ていた。
ニックは地下室での出来事を、映画のフィルムが巻き戻るかのように思い出した。
みんなは……みんなはどこに行ったッ……?
不安の様相で、部屋中を見渡す。けれど、この無菌室のように穢れなき部屋にはニックと、二人の男しかいなかった。
「み、みんなは……? みんなは……どこに行ったの……?」
男たちは顔を見合わせた。
「思い出したようですね。今から経緯を話します。落ち着いて聞いてください」
ニックがパニックになることを見越していたふうに、男は前置きした。
「きみはルベニア教会で何をされたのですか?」
ニックは首をふることも、うなずくこともなく、シーツを上に置かれた自分の手を見つめた。
「今から、常識では考えられないことを言いますが、すべて私たちが目撃した事実です。私たちがルベニア教会に駆け付けたとき、獣人。簡単な言葉でいえば怪物になっていました」
ニックは横目に男を見た。
真面目を絵に描いたような真剣な表情で、男は続ける。
「憶えていますか?」
あのとき、地下室で自分はどうなってしまったのだろうか……。あのときは無我夢中だった。ミロルを助けたい一心で――。あのときなのだろうか。確かに、何かに憑かれたような感覚はあった。
体の内側から力が溢れてきた。
すでにあのとき自分は怪物になっていたのだろうか……。
神父はいった。自分には秘められた力があるのだと。
自分は選ばれた人間なのだと。
「部下の一人がパニックになり、きみに発砲してしまったのです。みぞおちの辺りが傷みませんか?」
男はニックの胸元を指さす。
自分でみぞおちを触ってみたが痛みはない。首もとから中をのぞいた。包帯が何重も巻かれていた。
「不思議なことに傷口はふさがっています。自然治癒力が常識では考えられないほど速い」
男は足を組んで、膝上で両手を組んだ。
「UB計画という言葉を知っていますか?」
「UB計画……?」
男はうなずく。
「はい。ウルトラビースト計画です」
ニックはその言葉を知っている。
神父がそのようなことを話していたのを確かに聞いた。
けれど、この男たちに答えていいものなのかわからず、口をつぐむ。
「私たちは、ルベニア教会でそのような実験が行われているという情報を聞きつけ、ずっと張り込んでいたのです。そして三日前の夕方、アノンという男の子が教会から血相を変えて出てきたことで、事態が一変しました」
「アノン……み、みんなはどうなったの……?」
「安心してください。みんな私たちが保護しています」
「チャップとミロルも……?」
ニックはベッドから身を乗り出さんばかりに男に迫った。
「チャップという子は意識も戻り、順調に回復しています。ミロルという子はまだ意識が戻っていません」
「だ、大丈夫なの……? ミロルの意識は戻るよね……」
男の顔色がはじめて曇った。
「まだ、わかりません」
自分が遅かったからだ……。
もう少し速く地下室から連れ出せていれば……。
後悔しても、もう手遅れだ。
「話を戻します。ルベニア教会で何が行われていたのです?」
放心状態でうつむいたままニックは答えない。
男は険のある声で発した。
「答えなさい。私の問いにすべて答えれば、明日にでもみんなに合わせて差し上げます」
ニックは顔を上げて、男の眼を見た。
嘘を言っているようには思えなかった。
「わ、わかった……」
満足したように男はうなずき、となりにいた男に手を差し出した。男は右手に持っていた書類を狐面の男に差し出す。
「では、ルベニア教会ではどういうことが行われていましたか?」
「どういうことって……?」
男は乗り出していた上半身を、背もたれにもたせ掛け、しばらく考えるように押し黙る。
「格闘術や、銃の扱い方、何かおかしな検査、虐待のようなことは?」
「そんなこと習ったことないよ……。虐待もおれの知ってる限りなかった……だけど……」
「だけど?」
「わけのわからない検査は受けたよ。月に一回あるんだ」
狐面の男はもう一人の男と目配らせをした。
「その検査は教会にいた子供たち皆が受けていたのですか?」
「十歳より上の子供たちだけだよ」
狐面の男は顎に手を添えて、「そうですか」と考え込む。
この質問にいったい何の意味があるというのだ。
この男たちは何を調べているというのだろう。
「きみたちは、数か月前にルベニア教会に来たばかりだと言いますね。それ以前はどこにいたんですか?」
ニックは目をそらして、小さくいう。
「街で……スリをしていたんだ……」
「スリ、ですか」
ニックはすぐさま弁解の言葉を口にする。
「だけど、それじゃいけないと思って――ちゃんと働いたんだ。ラッキーって男が仕事を紹介してくれて、おれ達ちゃんと働いたんだよ。そうしてたら、ラッキーがタダイ神父を紹介してくれて……」
細められていた男の眼が見開かれた。
「ラッキー――今ラッキーと言いましたか?」
男の覇気に気圧されて、ニックは自分が何かいけないことでも言ってしまっただろうか、と考える。
「そうだけど……」
「ラッキーがルベニア教会の神父をあなた達に紹介したのですね」
「そ、そうだけど……」
男の目つきが一層鋭くなった。もう一人の男に目配らせをすると、男は了承したようにうなずき部屋をあとにした。
「それは確かなのですね?」
男はニックの両肩を掴んだ。
恐怖でニックはすくみ上る。
言葉が出ず、うなずくことしかできない。
「ありがとうございます」
男は立ち上がり、ニックを残して部屋をあとにした――。