case191 前進している
救出に向かったはずの部下二人は肩で息をして、今にも逃げ出しそうに構えている。
二人の身に何が起きたのか、口隠しの上に位置する目が恐怖の色を色濃く映し出していた。それはまるでゴルゴンでも目撃したかのように。二人は今すぐにでも逃げ出したいのを、理性で抑えているようだ。
伝えたいことに対し口がついてこず、呂律の回らないへにゃれた声を発した。意味を読み取ることは困難だったが、不思議と鬼気迫る切迫感はヒシヒシと伝わってきた。
「落ち着いてください。そうまくし立てられては、わかりません」
血走った目で部下は階段を一瞥した。
「速く……速くっ、逃げないと……」
「逃げる? 何から逃げるというのです」
「ば、化け物が迫っているんですっ……」
「化け物?」
二人の様子を見る限り、嘘だとは思えなかった。
けれど、化け物とは何なのだろう。
煙が幻視を見せたのだろうか。
「き、来たッ……」
叫ぶや否や部下は懐に忍ばせていた銃を、煙が上がる階段に構えた。
その行動はあまりにも狂気的だ。
「何をしているのですかッ」
サエモンが責めると同時に、煙に人のような影が浮かんだ。言葉を継ぐのも忘れて、サエモンは刮目する。
ギラギラと光る鋭い眼光が、煙の中に浮かび上がる。
その光は以前、森で見た狼の眼を彷彿とさせた。
煙をまとい、ゆっくりとそれは姿をあらわす。
両腕に少年を抱えていた。少年はぐったりと腕を宙に投げ出し、見える横顔は女のように青白い。少年を抱えるのは、二足歩行の狼のような姿をした怪物だった。
その光景に魅入られ、サエモンは判断を遅らせた。
追い詰められた小動物が最後の抵抗を試みるように、部下の一人が銃のトリガーを絞っていた。
「撃つなッ!」
けれど車が急に止まれないように、言葉のブレーキは遅かった。火薬が破裂する高い音が鳴ると同時に、弾丸が怪物のみぞおちに吸い込まれる。
その弾丸はいざというときにと、皆に配っていた銀の弾丸だった。
構えが震えで一ミリほど下にずれていれば、少年の貫いていただろう。
「待ってッ、撃たないでッ!」
その声を発したのはサエモンではない。褐色の肌の少女だった。
部下は二発目を放とうとする指先を、すんでのところで止めた。自分が先走り過ぎたことを悟り、銃を落とす。
「ご、ごめんなさい……」
怪物は膝の力が抜けるように、崩れ落ちた。自分が倒れるさなかですら、抱いた少年をかばうかのように放さない。ばたんと背中から背後に倒れた。
しばらく誰もが呆然としていた。
静寂を破ったのは、少女。
助け出された少年の看病をしていた、少女は何か大切なことに気付いた様子で立ち上がり駆けるように、怪物に近寄る。
「待ちなさいッ!」
サエモンは叫んだ。
まだ怪物が死んだのか判然としていないのだ。けれど、サエモンの声は少女に響かず、少女は怪物の顔を確かめるようにしゃがみこんだ。仕方なくサエモンは銃を抜き、構えた。
「撃たないでッ。これはニックよ……あたしたちの家族よっ」
「ニック……?」
的を外し、サエモンは銃を下す。
「あたしたちの家族よ。姿が変わってるけど、ニックだわ。あたしにはわかるの」
そういって、少女は我が身をていして怪物をかばった。
怪物がニックという人間なのかわからないが、すでに動かない相手にこれ以上弾丸を撃ち込もうとは倫理的に考えられなかった。
「誰か、二人を助けて……ミロルが動かない……」
怪物が最期まで護っていた少年は、凪の水面のように静かな顔をしている。そこでやっとサエモンは動いた。
「怪物が抱えている少年を診てください」
軍医の経験があるピーターソンにいった。
一瞬ひるんだが、ピーターソンは即座にうなずき怪物から少年を引き離し、先に助け出されたもう一人の少年のとなりに寝かせて、まずは脈をとる。そして、心臓に耳をかざし、手の平を少年の口にかざした。
「どうですか……」
意識のある少年と少女は緊張の面持ちで、話を待つ。少女は恐れることなく、怪物のとなりにしゃがみ込んだままだった。
ピーターソンはサエモンの問いに返事を返さず、そのまま心臓マッサージをはじめた。少年の顎を持ち上げ、気道を開ける。あばら骨が折れるのではないかと思わせるほどに、強く心臓を圧迫する。
迷うことなく口と口で空気を送り込み、その度に肺が膨らみ、心臓を圧迫する。数分間続けている内に、少年はせき込んだ。息を吹き返したのだ。少女は涙を流した。
「まだ、安心はできません。本当の意味で生き返ったわけではありません。今すぐにちゃんとした医師に診せないと」
色々やらなければならないことがあるが、まずはこの二人の命を助けることが先決だ。サエモンは少年二人を、街の病院に連れて行くように命じた。
命令して数秒もしないうちに、部下二人は少年二人を抱え上げ車に引き返した。
「ニックも……ニックも助けてあげて……息が弱くなってきてる……」
少女は怪物の首にしがみつき、サエモンにいった。
サエモンはしばらく押し黙る。
この怪物を助けてしまっていいのだろうか。少女はこの怪物がニックという名の家族なのだと言うが、本当だろうか。ウイックの話では、森で見た狼は元人間だったという。
その話が本当なら、怪物が人間だという話も信憑性が増す。けれど、助けてしまっていいのだろうか。助けたところで、自分たちに危害を加えない保証もない。
そのとき、サエモンの心境を変える変化が怪物に起こった。
怪物の体がみるみる、小さくなっていく。その変化はとてもゆっくりで、変化に気付くには時間がかかった。
「わかりました」
サエモンはピーターソンに怪物を診るように伝える。
恐る恐るピーターソンは怪物のみぞおちに開いた傷口を診た。
診察が終わるころには、怪物は普通の少年の姿に戻っていた。少女の話は嘘ではなかったのだ。これでサエモンはウイックが言っていた話が、事実であると確証を持てた。
「弾は貫通しているようです。心臓はそれています」
「つまり、どうなんですか?」
「命には別状ありません。不思議なことに、傷口もふさがっている」
少女は張りつめていた緊張が解け、気が抜けたのか気を失った。
少年は少女に駆け寄より、ゆすぶるが一向に目覚めなかった。
「おい、セレナ……おい、しっかりしろよ……」
「大丈夫。気を失っているだけです」
ピーターソンは少年にいった。
困惑気味に顔を歪めて、少年はうなずく。
一部始終を見ていたサエモンは、部下の一人に命令した。
「それでは、少年を連れて行ってください。彼は重要な証人になりえます」
「ま、待てよ。ニックをどこに連れて行くつもりだよッ?」
少年はニックを連れ去ろうとする、部下にしがみついた。
「彼は我々が保護します」
サエモンは冷徹に言い放った。少年は言い返さない。この状況で話すことが見つからないかのように、口を半開きにした状態で連れ去られるニックをただ眺めていた。
サエモンは部下たちに続けて命令を与える。
「二人を保護し、救援を呼んでください。残りの者は教会内にいる子供たちを一時、集めるように」
階段から立ち込める煙は薄れていた。タダイ神父はこの地下室にいるのだろう。しかし、生きている可能性は限りなく低かった。
神父から実験とジェノベーゼの繋がりを聞き出すことはできそうにない。もたもたせず、踏み込んでいればよかったのだ。
振り出しに戻った。いや、そう思うのはまだ早い。振り出しになど、戻っていない。ニックという少年を手中に収めた。それに、教会内を調べたわけではない。
教会内には、その他の実験施設の場所が記された書類が隠されているかもしれない。確実に前進している――。