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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第一章 事件編 人と獣は交われない  
23/323

file21 『キプスの教え』

 獣の鼻さきが噛み千切られた。

 鼻骨は硬すぎて無理だったが、軟骨は噛み千切れたようだ。

 鼻を抑えながら、床にのたうち回る獣。指のあいだからは大量の血が漏れ、床を汚した。私は獣を見下ろす。しばらくすると、

「どうしたの! いったい何があったの!」

 と大人たちが駆け付けた。床にのたうつ獣を見つけると、状況が理解できないらしく戸惑う目で私を見つめる。私の口からは血が流れていた。

「あ……あなたがやったの……?」

 私は何も言わずに、大人を見つめる。何が怖かったのか、「ヒィッ!」という息を詰めるような声をあげて、大人は逃げていった。

 数分後大勢の大人を連れて、さっき逃げた大人が返ってきた。

 そして私は責められた。初めに手をあげたのは獣なのに私だけ責められた。

 どうして暴力を受けた私が責められ、暴力を振った獣は責められないのか。暴力を受けても何もするなというのか。

 この世は狂っている。弱い者は暴力を受けても何もいえない。強い者は暴力を振っても何も言われない。この世は狂っている。私がこの世の悪を正さねば。

 村に戻る道すがら、二人はキプスに出会っていた。

 腕の怪我はもうすっかり治り、怪我を負っていた右腕に猟銃を持ち、ロープを背負っていた。肩に掛けられている、ロープを辿っていくと、動物が縛られているのが分かった。

 

 立派な角から、鹿であることがすぐに分かった。

 猟に出ていたのだろう、元気な人だ。


 しかし、こんな物騒な森によく一人で入れるものだ、とつくづくバートンは感心した。いくらこの森のことを知り尽くしているとはいえ、さすがに一人は危険だ。

 いつ何時、化け物が襲ってくるかも分からないのに。


「キプスさん、お久しぶりです。こんなところで会うとは奇遇ですね。猟に出られていたんですか?」


 バートンは引きずられる鹿を指さして、いった。


「あぁ、お久しぶりです。本当に奇遇ですね」、そこでいったん、キプスは黙り込み吊るされた、鹿を見ながら、「もう、怪我も治りましたからね。私にも生活が懸かってますから、出ないわけにはいかないんですよ」と、短く刈り上げた頭をゴリゴリと掻いた。


 キプスは話を変え、「それより、こんなところで何をしていたんですか。事件の捜査ですか?」キクマとバートンどちらともなく訊く。


 二人が答えようとしないのでキプスの眉根は不思議そうに歪み、皺の深い顔が、さらに歪んだ。


「あ……そのですね……」


 バートンは言い渋る。

 ただでさへ、残虐な事件で心に傷を負っている者もいるのに、その傷が癒えない間にまたも事件が起きてしまったのだ。

 精神的に強いキプスでも、気分を害さないことはないだろう。


「心して聞いてください……」とキプスの意志を確認して、「また、被害者がでました……」とバートンは慎重に伝えた。


 キプスは口端を歪め、「あぁ……そうだったんですか……お気の毒に。――被害者は誰ですか……?」もう二度と開かないのではないかと思うほど引き締められていた、口が開き、キプスは問う。


 握られているロープがふるえていた。

 まるで何もできない自分の不甲斐なさを押し殺すかのように、ロープはふるえていた。


「発見者がいうにはビーンさんという方だったそうです」


「ビーンさんですか……」


 その名前を聞いて、キプスは顔色を一転させた。

 不思議に思ったバートンはキプスに訊ねる。


「ビーンさんがどうかされましたか?」


 しばらく、キプスは答えなかった。

 まるで答えようか、辞めような迷っているように見える。


「亡くなった人のことを悪くは言いたくありませんが……」


 キプスはいったん区切り、「この村では暴れん坊で知られていた方だったんですよ……」と、ここには三人しかいないのに、ひそひそ話をするように声を低くしていった。


 被害者は暴れん坊で知られていた。

 

 そういえば、ラッセルもキスカに暴力を振るっていたと、サイがいっていたな。とバートンは思い出す。


 偶然かも知れないが、被害者のどちらも何かしら、悪さをしでかしているということか。

 まぁ、悪いことの一つや二つ誰だってやっている。かくいう自分も子供のころを思い出ししんみりと懐かしい思いにかられた。


 だから、被害者が悪いことをしていようと偶然の可能性が高いのだが。バートンは自分の考え過ぎだと思うことにした。


「暴れん坊といいますと?」


「喧嘩沙汰が絶えなかったんです。いつも、村の人たちと喧嘩をしていました。それも殴り合いの」


「殴り合いですか……穏やかじゃありませんね」


 するとキプスはまた声を潜めていう。


「この村でビーンさんを恨んでいた方は多かったらしいですからね」


 被害者のビーンは誰からも恨みを買っていた、ということが分かった。それだけでも大きな収穫だ。


「キプスさんありがとうございました」


「いえ、私はなにもしていませんよ。知っていたことを教えたまでです」


 キプスはロープを肩に掛け直しながら、いった。

 重そうな鹿だ。何百キロあるのだろうか。バートンは鹿の平均体重を知らないが、百キロはあると見た。


 バートンはキプスに歩みより、「その鹿、重いでしょう? 私が持ちますよ」と、鹿を指さしながら、いった。


「あぁ、そうですね。それではお願いしましょうかな」


 そう言って、キプスは肩にかけていた、ロープをバートンに手渡す。バートンは鹿を引きずろうとしたが、まったく動かない。


 とてつもなく重たいのだ。まるで、車でも引きずるが如く、重たくて進みもしない。仕舞によろけてこけそうになり、となりにいたキプスに支えられる始末だ。


「あ……ごめんなさい……」


「ハハハ、重いでしょ。こいつを引っ張るにはそれなりのコツがいるんですよ。本当のことをいえば、仕留めたその場で血抜きをしていれば、もっと軽くなるんですが。そうすると、血のにおいにつられて何があらわれるか分かりませんからね」


 猟のことに詳しくないバートンでも納得の答えだった。

 サメは一滴の血のにおいを一キロメートル離れたところからでも、嗅ぎ取れる。と、いう話を聞いたことがある。

 

 嘘か誠か分からないが。

 誇張(こちょう)し過ぎている気がしないでもない。


「はあ、凄いですね。こんな重い鹿をよくその年で運べるものです」


 鹿をキプスにゆずったそばから、バートンではびくともしなかった鹿が動いた。

 

 まるで車輪が付いているかのようにすんなり動いたものだから、バートンは驚き、思ったことが口から洩れる。 


「長年やってますからね、コツを教えますよ」


 そうして、バートンはキプスに鹿を引きずる極意を教わった。

 鹿の重心が逃げないように、全体重を前身に傾けて、引っ張るのだ。

 

 この極意がいったい何の役に立つか分からないが、知っていて損はないだろう。まったく猟師の凄さをまじまじと見せつけられた。


 

 そして、三人は村の入り口で別れた。今から、鹿の解体に取り掛かるそうだ。本当に元気な初老の男である。


 キクマとバートンが村に戻って来たときには、もうキャリア集団、サエモンの姿はなかった。帰ったあとだ。警察が大勢来たことで、村の中央には人だかりができるまでになっている。


 あんな、ぞろぞろと警官が押し寄せて来たら、気付かない人間はいないだろう。


 村人たちは不安そうに、ひそひそ話をしていた。

 中にはモーガンとデモンも混じっている。


「あ! 刑事さん! 一体この騒ぎは何ですか……?」


 人だかりの中から、二人を呼ぶ声が聞こえてきた。

 どこからだ、バートンは人混みの中に目を凝らすと、手を振りながら、こちらに近づいて来るヴァネッサの姿が見えた。


 ヴァネッサはこの村の村長の妻である。おっとりした、お菓子作りが好きな優しい夫人。名前の由来は蝶々で、正に蝶のように優雅できらびやかな雰囲気のある女性だった。


「この騒ぎはどうしたんですか……?」


 ヴァネッサは二人の元までたどり着くと、困惑気味に問うた。

 バートンは答えて良いものなのか迷う。

 答えれば、村人たちの間にまた恐怖が広がるのではないか、と考えたからだ。しかし、答えないわけにもいかずバートンは口を開いた。


「実は……また被害者がでました……」


 ヴァネッサの顔から血の気が引く。


「そうなの……」


 それ以上ヴァネッサは何も言わなかった。

 言えるはずがないだろう、今回で被害者は四人に上っている。

 キプスも入れれば、五人になるが。キプスは銀狼にやられたと、言っている。銀狼は人間を喰っていなかった。つまり、キプスは被害者から外しているから、四人だ。 


「なるべく、家の外には出ないようにしてください」


 それくらいしか、注意できない自分が情けない、と思うバートン。


「え、ええ、分かりました……」


 バートンはヴァネッサに言い終えると、続けて、村人たちにいった。


「家からはできる限り出ないようにしてください」


 しばらく、すると民衆たちでごった返していた集団が、真っ二つに割れ、中から女が歩いて来た。視線を少し下げると、犬も女について歩いているのが分かる。モーガンとシェパードのデモンだ。


「まだ、犯人は捕まらないんですか」


 モーガンは歳の割にはしっかりした、体幹を持っている。

 しゃべり方にも無駄がない、テキパキとした老女だった。

 石畳を踏み鳴らす姿はとても老女には見えない。石畳を踏み鳴らすその姿はまるで、ダンスを踊るが如く颯爽としているからだ。


 そしてデモンが近づいてきたとき、悲劇が起きた。

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