case190 救出
聖堂のとびらが開け放たれている。
幼い男の子が深刻な顔で、丘を猛スピードで下っていた。
少しでも足をもつれさせれば、顔から斜面を転げ落ちてしまう。危なっかしく、見ているだけで冷や冷やした。
男の子を前方に見据えながら、サエモンは手を振って呼び止めた。
歳はまだ十代に届いていないだろうと思う。八歳くらいだろうか、薄い栗毛で、羊のように毛先がくるっと柔らかそうなカールを巻いている。
男の子はサエモンの前に立ち止まり、震える指先で丘の上に見える教会を指さした。
「何があったのですか?」
できるだけやさしい声を意識する。
けれど、こういう聞く者の神経を、逆なでしかねない声を猫なで声というのだろう。
「み、み、みんな……! 出てこないのッ!」
声変わりのしていない、女の子のような甲高い声で男の子はいった。
「出てこない? 何があったのですか?」
「地下に、地下に、入ったまま出てこないんだッ! そ、そ、それに、煙が、すごい煙で……」
男の子の話だけでは、何が何だかわからなかった。
けれど、男の子の鬼気迫った様子から察するに急がねばならない案件らしいということはわかる。サエモンは説明を省き、男の子に案内するように頼んだ。
男の子の後に続きサエモンは丘を駆け上がる。
プヴィールも遅れて、サエモンに追随する。
聖堂内は薄暗かった。夕暮れなのもあるのだが、それだけが原因ではないことは一目でわかる。白く濁った煙が聖堂を漂っているのだ。
煙の出所を探さずともすぐにわかった。
祭壇らしき重厚な壇が横にずれていて、その祭壇で隠されたであろう階段が姿をあらわしている。その階段から煙がモクモクと噴火口のように湧き出ていた。
男の子が階段を指さして、まくし立てる。
「あ、あの中に、み、みんな入っていっちゃったんだ……!」
サエモンは階段のふちまで歩み寄り、覗き込むようにして中を見る。
灰色の煙に透けて、遠近的にランプのような灯が地下に続いていた。
「きみの友達が、この中にいるのですね」
サエモンは男の子に問うた。
「うん……」
「煙はいつから?」
「い、今さっきだよ……」
「わかりました」
と男の子にうなずきかけて、続けてプヴィールにいった。
「私が潜ります。もし、五分してもでてこなかったら、皆に知らせてください」
そういって、サエモンは着ているスーツを脱ぎ、袖と袖を首の後ろに通して、口隠しのようにしてマスクを作った。心もとないが、しないよりはましだった。
「待ってください。僕も行きます」
「いえ、様子を見るだけです。すぐに戻ります、あなたは皆が来たときに状況を知らせてくれないといけません」
そう言い残して、サエモンは煙の充満した階段を足探りで下りる。石のひんやりとした感触が手を伝い、昂った神経を冷静にさせた。
煙が酷く頼れるのは、等間隔に設置されたランプの灯りだけだった。ランプの灯りを頼りに、サエモンは石段を下った。段差が均等にそろえられていないため、少しでも気を抜くと足を挫きかねない。
この煙の中足など挫けばシャレにならなかった。
螺旋階段上になっており、自分が回りながら下に下っていることがわかった。目を開けているのも辛い。涙を流し煙でショボショボする、目を潤す努力をした。
咳き込みそうだったが、下手に咳をして煙を吸い込むことだけは避けなければならない。そう思ったとき、咳のような音が聴こえた。
サエモンがしたのではない。
煙で見えないがすぐ下の方で、人間の咳が聴こえたのだ。
「誰かいるのですか」
スーツで口元を抑え、サエモンは言った。
返事はない。
壁に手をそえたまま、足早にサエモンは階段を下りた。すると、突如に目の前に影があらわれた。煙で視界が悪く、あわやぶつかりそうになる。
十二、三に見える少年と少女が、同じ年頃の少年の腕を両肩に回し担いでいた。この子たちがあの男の子の友達なのだろう。
「もう大丈夫です」
気を失っているのか、指一本動かさない少年をサエモンは横向きに担いだ。
「きみたちは自力で上がれますか?」
少年少女は腕で口元を隠した状態でうなずき、サエモンの後に続く。
長かった階段を再び登り、サエモンと子供たちは地上に出た。
部下たちがサエモンの後を追おうとした間際だった。
「大丈夫ですか?」
サエモンが抱えた子供を見て、プヴィールは駆け寄る。
「この子の様子を診てください」
そう言ったものの、サエモンの班には医療に精通した人物がいなかった。と、思っていたのだが、一人の男が躍り出た。
「僕は昔軍医をしていたことがあります」
そういったのは四十代後半の男、ピーターソンだ。
「この子を診てやってください」
サエモンはピーターソンのとなりに、少年を寝かせる。
共に生還した少年と少女は心配そうに様子をうかがい、切り出した。
「あ、あの……」
少女の声は煙を多く吸い込んだためか、かすれていた。
「ま、まだ、中にいるんです……。ニックとミロルが中にいるんです……」
あの煙の中にもう何分ほどいるのだろう……。
この子たちももう数分煙を吸っていれば、危なかっただろう。
今から助けて向かって、間に合うかどうか怪しいところだった。
まだ友達が中にいるというが、助け出せる可能性は限りなく低いと思う。けれど、何もせず見殺しにするよりはましだ。
「わかりました」
ほっておくわけにはいかない。
「チーフ待ってください……」
部下の一人が正気か? という顔でサエモンを呼び止める。
「この煙の中を再び潜るのは危険です」
「大丈夫です」
「駄目ですっ」
部下たちは首を縦に振らなかった。
「上司命令です」
「それならなおさらです。この中に入って、助かるわけないでしょう……この子たちには申しわけないですが……何も装備のないこの状況であなたを潜らせるわけにはいきません……」
するとすすけて艶のない黒髪をした少女が、涙をためて手を組んだ。
「お願いします……。お願いします……。どうか二人を助けてください……」
反対していた部下は顔を曇らせて、少女と目を合わせようとしない。
「お願いします……」
という今にも消え入りそうな声が、大人たちの良心を傷つけた。
「わかりました。チーフはここにいてください。僕たちが様子を見てきます」
そういって部下二人がサエモンと同じようにスーツを口隠しのように巻いた。
「けれど、自分たちが危ないと感じたら、申し訳ないですが、引き返らせてもらいます」
部下がそういうと、少女は溜めていた涙を流して何度もお礼をいった。
部下たちは煙を含んでいない空気を名残惜しそうに吸って、地下に続く階段を下っていった。けれど、五分もしないうちに、今潜っていった部下たちは血相を変えて舞い戻ってきた。
自分たちが危ないと思ったら引き返すとは言ったが、いくらなんでも速すぎる……。これでは、見せかけだけでも少女に顔向けできなかった。
けれど、二人の様子が少しおかしなことに気が付いた。
何かに怯えているのか、顎がかみ合っていない。
「いったい……どうしたのですか……? 子供たちは……」
部下は背後を気にしながら、慌てて階段から距離を取った。
その姿は何かから逃げているように見えた。
「いったい……」
言いかけたとき、部下は震える声で答えた。
「ば、化け物が……化け物が出たんです……」