case189 狂戦士の覚醒
銃声の余韻が鼓膜を小刻みに揺らしている。
そのあとに続くのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
誰もが状況の急変に思考が追いついていなかった。
数秒前までレムレースの優位は揺るがないと、誰もが思っていた。けれど、形勢は百八十度逆転している。少しの油断が死を招くことがあるという典型的な例に見えた。
当の本人であるレムレースも、自分の身に何が起きたのか理解していないようだった。天を見上げ彼女はしばらく呆然と目をぱちくりとさせ、状況の把握に努めている。
ジョンはゆっくりと起き上がり、首をかたむけ彼女を見すえる。
ジョンの右手には銃が握られていた。銃に詳しくないキクナにでも、その銃が回転式拳銃という名称を持つ、銃であるということは知っていた。
レムレースは自分の赤黒く湿ったドレスに手をそえた。あれほど美しかったドレスは所々裂け、スカートには横一線に切れ込みが入っている。ジョンがナイフで付けたものだ。
レムレースは自分の目の前に手をかざし、我が身に何が起きたのかを悟った。
「どうして……。どうして……」
あれほど高飛車なふるまいをしていた少女が、まるで別人のように、声を震わせている。キクナはレムレースのその弱気な姿を想像することすらできなかった。
傲慢で、わがままで、冷徹で、残酷だった少女が、涙を流しているのだ――。か細く震え、涙を流す姿は年相応の女の子に見えた。
その姿を見てジョンは何を感じただろうか。
微動だにしない仮面越しには、機械的に感情が伝わってこなかった。
血が止まらないらしく、ワインレッドのカーペットをより一層濃い赤色に染め上げている。寒さに震えるように、少女は小刻みに震えていた。
「死にたくない……」
腹を両手で抑え、少女は涙を流しながらいった。
月明りに照らされ、その儚げな姿は生ける芸術。
レムレースがこんなに弱気になるなど、信じられなかったが、確かに彼女は言っている。死にたくない――と。
無情にもジョンの心には届かない。
冷徹に冷酷にジョンは再び、銃を構えた。
「死にたくない……」
キクナは駆けだす。
けれど、ラッキーがキクナの腕を掴んで、止めた。
「放してッ、もう勝負はついたじゃないッ! 止めないとッ、このままじゃ本当にッ……」
乱暴に手を振りながら、キクナはいった。
けれど、返ってきた言葉は衝撃的なものだった。
「手を出してはいけない――彼女が望んだことだ――。彼女なら大丈夫。これしきのことで、やられはしない」
聞き間違えたのかと思い、キクナはラッキーを見た。
彼は至って冷静で、表情一つ変えていない。
あれほど温厚で陽気でマフィアのボスの器だとは思えなかったが、やはりこの人は裏社会でのし上がれただけの冷酷さを持っているのだと、今ならわかった。目の前で家族や親友が殺されようと、微動だにしない氷よりも冷たい心を持っている。
このままでは駄目だ。
キクナはラッキーの手を振りほどこうとするが、手錠かなにかで拘束されているかのようにビクともしなかった。
「もう、勝負はついたッ! やめてッー!」
キクナはジョンに訴えかける。
ジョンなら自分の言うことを聞いてくれる。キクナはそんな甘い考えを抱いていた。けれど、構えた銃は下ろされることはない。
ここにいる誰よりも、ジョンのことは知っているつもりだった。けれど、自分がジョンのことを、ここにいる人たちと同じ程度のことしか知らないのだとやっと叩きつけられた。
ジョンは自分が思っていた以上に、冷徹で、残酷なのだと。
彼のことを知りたいと、もっとわかりたいと思っていた……。けれど、自分にはジョンのことを理解することができないのだと、突きつけられた。
「ジョンッ……。やめてよ……。やめて……」
キクナは自分の不甲斐なさに涙を流す。
自分にはジョンを止めることもできないのだ。
ジョンとの信頼関係などはじめからなかった……。
生き馬の目を抜くが如く、ジョンはレムレースから距離を取っていた。もう、動くことすらできない少女を最期まで警戒し、油断はない。レムレースとジョンの違いだ。
狙いを定めるため、ゆっくりとトリガーを絞る。
少女は虚ろな目から透明な涙を流し、死にたくないとお呪いのように唱えていた。
「やめてっー!」
キクナの叫びが静寂を破り、トリガーが絞られた。
音は遅れてやってきた。キクナは目をつむった。
決着がついた。と、思った。
けれど、黒服たちのどよめきで、まだ終わっていないということを知った。
キクナは恐る恐る目を開き、リングを見る。
動けなかったはずのレムレースの姿が、ない――。ホール中を見渡した。けれど少女は忽然と姿を消していた。そんなはずはない。そう思ったとき、赤い水滴が雨のように空から落ちてきたのを、キクナは捉えた。
黒服の誰もが天を仰いでいることに、悟る。
そんな……惹かれるように天を仰ぎ、キクナは信じられないものを目撃した。少女はいや、少女だったであろう獣は五メートル以上もの高さを、飛んでいたのだ。
レムレースの脚はイヌ科動物の後ろ脚のように、湾曲していた。
変わったのは脚だけではなかった。鼻も犬のように突き出ているのがわかった。その姿にレムレースの面影はもはやない、獣になっていた。
空中を滑走するように、獣はジョンに迫る。
一瞬の判断で、銃を構え直す。狙いが完全に定まらない中、ジョンは発砲した。獣は左腕を盾にして、銃弾をしのぐ。すでに四発弾を消費していた。
前転して、獣をかわす。獣は五メートル以上の高さから下りたにもかかわらず、堪えた様子はなく猫のように着地した。背後に避けたジョンに向け、獣は回転蹴りを浴びせる。
ジョンはナイフの刃を立てて構え、蹴りを受け止める。
獣の脛から血が噴き出し、ジョンは背後に飛ばされた。
通常なら歩くことすらできないだろうが、獣は痛みを感じていないかのように歩いている。脛から溢れていた血も、見る間に勢いは衰えやがて止まった。
「あ……あれはレムレースなの……?」
キクナはラッキーを垣間見る。
「そう。あれが彼女の真の姿なのさ」
「真の姿……」
口は裂け、かすかにのぞく歯は狼のように鋭く輝いていた。
ドレスは急激な巨大化で裂けてなくなり、銀色の長かった髪は月明りで、夜の海に引き寄せては打つ波のようにうねっている。華奢だった少女の体は、屈強な男よりも更に大きくなっていた。足に至っては、もはや原型をとどめず狼の後ろ脚のようである。
「そう――。狂戦士だ――」
子供がおもちゃを自慢するような、誇らしげな声でラッキーはそう答えた――。