case187 覚醒
煙が地下室に充満して、視力には頼れない。
息を吸おうにも、煙のザラザラとした微粒子が喉につっかえて酸素だけを取り込むこともできない。この状態があと数分続けば、意識を失って死んでしまうだろう。
ニックはしゃがみ込み、ミロルの上半身を起こした。
「おい、しっかりしろ……」
ミロルの息はまだある。
煙の成分は炭素なので、空気より重い。普通に考えれば下に溜まると思うが、火が作り出す上昇気流が煙を天に押し上げ、倒れていたミロルを救ったのだ。ひざ丈より下にはまだ人間が吸っても大丈夫な空気が溜まっていた。
ニックは、砂漠で遭難した人間がオアシスを見つけ水を飲むように、無我夢中で底に溜まった酸素を取り込んだ。
ニックの呼びかけに、ミロルは意識を取り戻した。
目を苦しそうに固く瞑り、何度かしばたたかせた後にニックを視界にとらえる。
「何で――来たんだ――」
危篤の老人のように弱々しい声。
「しゃべるな」
言って、ニックはミロルの腕を首に回し、力ずくで起き上がらせる。ミロルが自力で起き上がることは不可能だ。確かめたわけではないが、ミロルの肋骨は数本いかれている。
通常なら言葉を発することすら、困難だ。なるべく息を止めて、煙を吸わないようにミロルに告げる。
地下室はそれほど広くないけれど、ミロルを担いでだと部屋の端にある階段に到着するには数倍も時間がかかる。時間がないのだ……時間が……。
自分にもう少しの力があれば、もっと早くミロルに新鮮な空気を吸わせてやれるのに……。どうして、いつもこうなのだろうか……自分に力がないばかりに、誰も助けることができないのだ。
ニックは力を望んだ。一刻だけでもいい、ミロルを助けることができる力が欲しい。
悲観にくれているとき、弾力のある壁にニックはぶつかった。
おかしい、ここに壁があるわけがない。
煙のせいで方向感覚を失ってしまったのだろうか。
けれどすぐに気付いた、方向はあっている。この通路を真っすぐに行けば、目の前には階段がある。
もう少しだったのだ。けれど、そこに壁ができている。決して大きくはないが越えられない壁ができている。神父だった。神父のたるんだ腹が、階段へ続く希望を塞いでしまっているのだ。
ミロルを担いだこの状況では逃げられない。
ミロルを捨てて、煙に紛れれば自分だけは助かることができるかもしれない。けれど、そのような考えは一ミリも抱かない。家族を捨てて逃げるくらいなら、自分も共に死のう。酸素が行き届いていないニックの頭が最期に導き出した答えだ。
「まったく、なんてことをしてくれたんですか……」
息苦しそうにそういって、神父はミロルの頬に平手打ちを喰らわせる。
ニックは叫ぼうと思ったが、空気が吸えずに言葉が出せない。
「どうして――わかって――くれないのですか……」
神父も言葉を出すことすら苦しいはずなのに、その口はとどまることを知らない。神父が何かを言っていることはわかる。けれど、意味をなして聞こえない。
いや、ちゃんと人間が話す言葉として意味をなしているのかもしれない。けれど、ニックには意味をなして聞こえなかった。
どうしてなのだろう……。
人間の言葉が何か別の生き物のように聞こえる。
煙を吸い過ぎたせいで、脳が死んでしまったのだろうか。
けれどそのとき煙に見え隠れする神父の顔が、恐怖に慄いているかのように見えたのは気のせいだろうか。
そして、もう一つ自分に起きた変化がある。
高揚感と共に力が体の奥から湧き出てくる感覚。
溢れ出る力は自分の中から暴力性を呼び覚ますように、高鳴っている。
虚ろを漂っているようなこの感覚を、以前にも体験したことがあった気がしてならない。そう考えている間にも、神父は恐怖に怯える目で後下がりをしている。
間違いない、この光景をどこかで自分は見ている。
以前もどこかで同じような体験をしている。
このような感覚になったときに、視界に映る人物が皆同じように怯えた表情をするのだ。
神父な何かを話している。
けれど、意味をなしていない。
自分の意志とは関係なく振りあがった腕が、神父を跳ね除けた。
軽い手ごたえ。木の葉を払ったような、とても軽い手ごたえしかなかった。体重七十キロはあろうかという神父を、一振りで跳ね除ける自分。
想像以上に神父は吹き飛んだ。
これで道を阻むものはいなくなったのだ。自分の中から力が溢れてきた。今の状態ならミロルを助けることができる。これは神の奇跡なのだろうか。ニックは今この瞬間以上に、神に感謝したことはなかった。神様ありがとう、と。
ミロルを担ぎ上げた。そのときになってようやく気が付いた。
自分の体が大きくなっていることに。ミロルと同じくらいの身長だったのに、今では軽々と担ぎ上げることができているのだ。
今はそんなことどうでもいいことだ。
夢の中を彷徨い歩くように、自覚のない足取りでニックは階段を登り始めた。すでに螺旋階段全体に煙が行きわたっていた。
通常なら息はできないはずだ。
けれど、自分は息を吸えている。呼吸できている。
不思議だった。どうしてこの過酷な環境で呼吸ができているのか。煙に含まれたわずかな酸素だけを器用に取り込んでいるのだ。
けれどミロルは息をしていなかった。
速く地上に上がらなければ。セレナたちは上手くチャップを地上に連れ帰ることができただろうか。今の自分にできることは、二人を信じることだ。あの二人なら大丈夫。必ず、生還している。
階段を上がっている間際、前方に大人の人影が立ちふさがり、ニックを視界にとらえると、逃げるように大慌てで階段を引き返していった。
今の大人たちは誰だったのだろう。
見たこともない人だった。けれど、頭がだるく深く考えることが億劫だ。機械的に地上へ続く階段を上がる。
長かった階段もいよいよ終わりに差し掛かっていた。煙の間から光が差し込み、光がオーロラのようにうねって見えた。
ミロル。地上だぞ、しっかりしろよ。
すぐに新鮮な空気を吸わせてやるからな。
ミロルを抱えたまま、ニックは一段一段確実に地上に近づいていた。
煙が晴れ、地上に出た。
生還できた……。
やったよ、ミロル……。
見ろよ。地上だぞ……。
チャップがレッドカーペットの上に寝かされていた。
カノンとセレナ、そして知らない大人たちが横に着いて看病しているようだ。よかった、みんな無事だったのだ。
そう思った矢先、ニックはチャップたちの周辺に立ち尽くしている大人たちが誰なのか気になった。
けれど、そんなことはどうでもよいことだ。みんなが助かったのであれば、何よりだ。喜びの言葉を出そうとしたとき、自分が思い描いている声とは違う、萎えた声が聞こえた。その声は自分から発せられたのだと、しばらくして気が付いた。
セレナとカノンは神父と同じように、目を見開き自分を見る。
そんなことはいいから、速くミロルを、そうしてニックはミロルを二人に掲げてみせた。煙が消え透き通る景色に白い毛皮をかぶった腕が移り込んだ。
その腕の持ち主が自分だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
通りで、皆自分を見て驚くはずだ。
神父が言っていた、力とはこのことだったのだ。やっと、ニックは自分に秘められたという力を知った。
そのときだった。
恐怖に目を見開き、気がふれた大人の一人がニックに銃口を向けた。
同時に狐のように引きつった目をした男が、何かを叫んだ。何をしゃべっているのかわからないが、口を読む限り「撃つな」といっているようである。
けれど、遅い。
男が撃った弾丸は、ニックのみぞおちに吸い込まれるように消える。
少しでも下にそれていれば、ミロルに当たっていた。
自分で良かった……ニックは薄れゆく意識の中そう思った――。