case186 燃え上がる炎
むき出しのレンガに、ナイフの鋭利な刃を高々と掲げる男の影が映し出された。誰もが目を見開き刮目するものの、動くことはできない。
それは一瞬のことだった。
危険を悟りもがくカノン。
放心状態からいち早く抜け出し、駆けるチャップ。
恐怖にすくみ目を覆い隠すセレナ。
目を見開き、立ち尽くすニック。
三者三様に違った反応を示す。
けれど、子供たちの考えていることは皆同じ。
間に合わない……。
カノンの首に振り下ろされようとする、ナイフを止めることはできない。ただ一人を除いては――。
ナイフが振り上げられると同時にミロルは駆けだしていた。
今まで階段に隠れていたミロルは、ナイフが振り上げられるとほぼ同時に姿をあらわし、刃先がカノンの首筋に届こうかと言うときに、タックルを神父に喰らわせた。
神父がミロルを視界にとらえたときには、すでに足下にもぐられていた。神父はぐにゃりと足を取られ、横向きに態勢を崩す。
カノンを抑えていた左腕は、反動で外れ神父は勢いよく横向きに崩れ落ちた。神父は一瞬パニックに陥り、ナイフを無造作に振り回した。
ナイフの残光が幾筋も交差する。
ミロルの頭上を何度も、ナイフは行きかった。
けれどミロルは神父の両足を放すまいと、両手で力強くつかんでいる。
「逃げろッ」
ミロルのかすれた声が静寂を破った。
ナイフが振り下ろされた瞬間から、わずか一二秒ほどの出来事であったが、不思議と数十倍にも増して時間の動きは遅かった。チャップは神父がでたらめに振り回すナイフをかいくぐり、腕を抑え込んだ。
ナイフの動きは止まる。
けれど、初老とはいえ神父は大人。
まだ、十二、三の子供の力ではおさえつけることは到底できない。
神父は渾身の力を込めて、ミロルを蹴飛ばす。
ミロルは人形のように軽々と、宙を飛んだ。テーブルの上に束ねて置いていた大量の紙や羊皮紙が紙吹雪を散らす。
足の自由が利くようになった、神父は大勢を立て直し両腕をつかむチャップを忌々しそうに睨みつけた。
「早く逃げろッ」
チャップがそういったとき、足が自由になった神父は渾身の力を込めて膝蹴りを放った。神父の膝が横腹に食い込み、チャップはすべての息を吐きだす。
陸に上がった魚のようにチャップは酸素を求め、口をパクパクとさせる。呼吸困難に陥っていた。その隙をつき、神父はチャップを再び蹴り飛ばした。
辺りに散らかった紙の上を滑り、チャップはレンガの壁に体を強打した。そして、そのまま動かなくなった。
「私は悲しいですよ。親にたてつくとは」
そういって神父は険しい目でニックを見た。
「どうかみんなを助けて……お願いします……お願いします……」
「あなたが力を見せてくれるのであれば、私もこのようなことをしたくないのですよ……。私も辛いのです……」
していることと、言っていることがまったくかみ合っていない。
「おれには本当にそんな力がないんです……本当です……」
けれど、神父はニックのいうことに耳をかさない。
ニックの言葉に首を振り、「いえ、あなたは忘れてしまっているだけで、力を持っている。心に住みついた獣はいなくなりません」と前面から否定した。
「本当なんです。今のおれには何もできないんです……。神父のいうことならなんでもします……。だから、みんなには手を出さないでください」
ニックは何度も訴えた。
けれど、神父は、待てるのであれば、私もあなたの記憶が戻るまで待ってあげたい、けれど、それで何年研究が遅れてしまうことか。その間に他国は何年先をいくことか、とまくし立てた。
神父は目に付いた者なら、誰でも良かったのだ。
そして、それがチャップだったというだけのこと。
ピクリとも動かないチャップの方角に神父はつま先を向けた。
「辞めてくれッー!」
叫んだとき強烈な光が地を這い、瞬く間に地下室に広がった。
神父とチャップを隔て、炎の壁が出来上がる。
いったい、何が起こったのだろうか……。すぐにわかった。ミロルが壁に掛けられていたランプを投げたのだ。漏れたオイルが、紙に浸み込み、その紙の連なりを足場にして火種は燃え移った。
「いったい何を……! 正気ですかッ」
ローブの袖で神父は口を覆った。神父の周辺に散らばっていた紙をつたいローブに炎が燃え移る。神父は慌ててローブを脱ぎ捨てた。
けれど、火の回りは想像以上に速い。
ローブを脱ぎ捨てたそばから、下に着っていたシャツに火種が飛びボヤが出る。火を消そうとしてはたけば、はたくほど水を得た魚の如く空気を得た火は大きくなった。
「今の内に逃げろッ!」
ミロルはかすれた声でいった。
「ミロルはッ!」
ニックは炎の向こう側に見えるミロルに叫んだ。
わずか数秒で、喚起の悪い地下室は煙で覆われた。
焼死は免れたとしても、このままでは二酸化炭素中毒で死んでしまう。残された時間はわずかしかなかった。
「いいから逃げろッ」
普段からかすれた声だが、今のミロルの声はいつも以上にかすれて聞き取りずらい。最悪な考えが頭に浮かんだ。
神父の強烈な蹴りを受けたことで、体の骨を折ってしまったのだ。言葉を出すのが辛そうなのを想うと、肋骨や肺近くの骨に違いない。
「骨を折ってるんだろッ……」
ニックはせき込みながらいった。
「いい――から、速く行けッ」
ミロルは焦っていた。
駄目だ。置いて行けるはずがない。
ニックはあのときのノッソンたちに殴られ蹴られする二人の姿が脳裏を横切った。自分はあのとき誓ったんだ。もう、家族を見捨てない、と。
カノンとセレナはどうすべきかわからない、という風に眼だけを見開き、口は堅く閉じていた。
「置いてなんて逃げないッ!」
そういって、ニックはセレナとカノンに向き直った。
「カノンとセレナはチャップを起こしてくれッ。もし起きなかったら、二人で担いで階段を上がってくれ」
放心状態だった二人は、気を取り戻しうなずいた。
「ニックは……?」
セレナが心配そうに訊いた。
「おれはミロルと逃げる。だから、先に行っててくれッ」
言うや、ニックは意を決して、火の壁に飛び込んだ。
袖で口を抑えながら、ショボショボする目をしばたたかせミロルを探す。地下室は黒い煙でほぼ覆われ、一メートル先も見えない、一寸先は闇。
「ミロル返事をしてくれッ!」
「来るなッ! なんでさっさと逃げないんだッ」
言葉を出すたびにミロルが弱っていることを知った。
息を吸うだけでも激痛が走っているはずだ。
その苦しみに震えるミロルの声で、ニックは居場所を把握した。
「待ってろ、今行くから」
足元が見えないので、ニックは足探りで進んだ。
今なら目が見えない人の気持ちがよくわかった。目に頼れない今、体中の神経が不思議な高揚感と共に極限まで高められている。
ニックのつま先がゴムのような感触をしたものに触れた。
ミロルは力なく、うつ伏せに倒れ込んでいた――。