case185 舞い戻った殺人鬼
キャデラックが夜の街にエンジンを轟かせた。
繁華街は仕事帰りの人間で賑わっているようだ。
まだ夜もふけきらないというのに、すでにぐでんぐでんに酔っぱらっている人間もチラホラ見かける。
その酔っ払いの一人が平衡感覚を失ったように千鳥足。左右にふらつきながらゆっくりと歩道からそれてゆく。車道と歩道を分ける境につまずいて、酔っ払いは車道にこけた。
絹を裂くようなブレーキ音が響き渡り、歩いていた人々は一斉にキャデラックに視線を向ける。
「たく、酔っ払いが」
ウイックは唾でも吐き出しそうな愚痴をもらす。
このような時間から再び駆り出されて、ウイックは大変機嫌が悪かった。目に付く者すべてに牙を剥きかねない。
酔っぱらいは自分が轢かれそうになったことに、気付いていないようだ。ヒクっとしゃっくりをして、火照った顔を冷ますかのように地面に顔を付けている。
「もういっそのこと轢いちまうぜ」
ウイックは警察関係者が絶対に言ってはいけないであろうことでも平気でいう。その度にキクマは冷や冷やするのだ。
「なんつうこと言うんだ……」
自分家のベッドと勘違いしているのか、いつまで経っても道からどかない酔っ払い。ウイックは爆発直前だ。このままではまずい……。
ウイックは横から手を出して、運転席のハンドルについているクラクションを殴った。甲高い、人間の注意を引き付ける音が何度も鳴った。
そこでやっと酔っ払いは、自分が眠っている場所が家でないと気づいたのか危なげに立ち上がり、とろんとした目でキクマが運転するキャデラックを視界にとらえた。
ライトが酔っ払いをサーチライトのように照らし出す。
ウイックは阿保面をさらす、酔っ払いに向けて何度もクラクションを鳴らした。
けれど、酔っ払いは車の前からどかない。後頭部に手を回し、ペコペコとあなたを下げる。たまりかねたのかウインドウを開き、ウイックは酔っ払いに怒鳴りつけた。
「死にてえのかッ! さっさと、どかねえと本当に下敷きにするぞッ!」
マフィアがかわいく思えるほどに、どすの効いた声だった。
けれど酔っ払いは余程の修羅場をかいくぐってきたらしく、ニタっと笑い面目なさそうに「こりゃどうも」と頭を下げた。
ぎこちない足取りで急くことなく、酔っ払いは歩道に足を向ける。
最善の注意を払い、酔っ払いがもう倒れて来ないことを確認したうえでゆっくりと車を出した。
「たく、あのまま轢いちまえばよかったんだよ。そうすれば、もう二度と酔っぱらおうなんて思わなくなるっつうんだ」
「轢いちまってたら、もう二度と酔っぱらいたくても酔っぱらえなくなっちまってたよ」
街中央を通り過ぎて、キクマたちは西門近くに迫っていた。
時刻は午後九時になっている。
ウイックの怒りも峠を越して、冷静さを取り戻しかけていた。
「どうして、こんな時間にマフィアのアジトになんて行くことになったんだ? 返答次第じゃただじゃ置かねえからな」
キクマは車の運転に八割方意識を注ぎ、後の二割で説明した。
「嫌な予感がするんだ。こんな月が出る日は、昔から何かよくないことが起こるんだよ」
ウイックはウインドウに頬杖をついた状態で、空に浮かぶ赤みがかった月を見た。完全に赤くはないが、月を取り囲む光の輪郭のようなものが薄く赤みがかっている。
「まあ、確かに血が騒がねえでもねえな。だが、それと、マフィアのアジトにどんな関係があるって言うんだ」
「あれから、ひと月以上が経った。そろそろ撃たれたって言う、傷口もふさがっているころだろう。今夜、ジョン・ドゥが現れる。そんな予感がする」
ウイックは興味なさそうに、腕枕をして黒い雲に隠れては現れを繰り返す月をただ見つめていた。
「好きにしてくれ」
館の周囲は刑務所にでも使われていそうなフェンスで囲われている。
館から漏れる柔らかい光を確かめながら、何事も起きていないことを確認した。いつものように、いつもの如く、門前には夜だというのに番人が地獄の門の警備にいそしんでいる。
番人たちに気付かれないように、キクマは建物の物陰に車を止めて双眼鏡で館をうかがう。となりではウイックのいびきが聴こえた。
キクマは一人、飽きることなく館を見張った。
雲で月が隠れてしまうと、レンズには暗黒しか映らなくなる。
見張りをはじめて二時間経過した、午後十一時、変化はない。
館に点々と灯っていた明かりの数は消えて、住居者は眠ってしまったことがわかった。
ベッドで気持ちよく就寝する富裕層とは違い、門番たちは面白くもない見張りを毎晩続けているのだ。自分なら絶対に続かないだろう、とキクマは思う。
門番は交代の時間に差し掛かったらしく、館の中から黒服が二人あらわれた。入れ替わるようにして、今まで門番を従順にこなしていた二人は館に引き下がる。
ウイックはいびきを止めた。
同時に厚い雲に、月が隠れ辺りは暗黒に閉ざされる。
それもしばらくのことで、すでに闇に目が慣れていたキクマには薄暗くとも見えなくはない状況だった。
ウイックに向けていた視線を双眼鏡に戻し、門番を見たときキクマは目を疑った。門番が消えていたのだ。
いったいどこに行ったのだと思い、慌てて双眼鏡を動かした。倍率の高い双眼鏡は、酔いをもよおすほどに激しく揺れた。レンズの端に、フェンスを飛び越える人影が見えた気がした。
ただの思い過ごしだったかもしれない。
そんなことを頭の片隅で思いながら、双眼鏡を地面に向けると門番二人がいた。地面に突っ伏し、双眼鏡の視界から消えてしまったのだとわかる。
倒れている。いや、倒されたのだ。
今見えた黒い影に間違いなくやられていた。
やはり、そうだ、あの影はジョン・ドゥに違いない。
ボスの首を取りに、再び舞い戻ったのだ。一度狙った獲物は逃がさない、蛇のような執念さで殺人鬼は舞い戻った――。