case184 カニバリズム
黒服たちは観客のように二人を囲む。
その光景はまさしくリング。
まるで訓練されていたかのように、黒服たちはすき間なく二人を囲み逃げ場を封じる。コロッセオで剣闘士たちに歓声を送る観客の如く、ホールは熱気と興奮に湧き盛り上がっていた。
「ルールは簡単、あなたがわたしを殺せばあなたの勝利。わたしがあなたを殺せばあなたの勝利。簡単でしょ」
レムレースの声はおもちゃを前にした子供のように弾んでいる。
キクナは階段を駆け下りて、ラッキーに駆け寄った。
ホールに集まった黒服たちを押しのけて、ラッキーの下までやって来ると、両肩をつかみ押し倒さん勢いで懇願した。
「ねえッ……。いったいどういうことなの。どうしてこんなことになっているの。辞めさせてよっ!」
ラッキーの肩をつかんで、何度もゆすぶった。
「それはできないことなんだ」
どうして、とキクナが訊くと、ラッキーは「彼女の望むことだから」と強い決意の宿る声でいう。
「レムレースは何を望むの……?」
「――彼女は彼を喰おうとしているんだよ」
ラッキーの肩をゆすっていたキクナの手が止まった。
自分の常識を覆すようなことが、間髪を入れずに起こりキクナはもう何が何だかわからなくなってしまった。今まで自分が見てきた世界の常識は通用しない……。このようなことは生まれてはじめて、今後も覆ることはないだろう。
「キクナさんにはわけがわからないことだと思う。わからなくて当然だ。現代の人々にはまず、受け入れてもらえない風習だ。けれど彼女には神聖な儀式なんだよ」
ラッキーは動揺に揺れるキクナの瞳を真正面から、見つめながら語った。
「彼女は人間を喰って、その喰った人間の力や思想は自分の一部になると信じて疑わない。きみから見れば、とても野蛮な行為だと思うだろう。けれど、その思想は彼女だけが持つものではない。人間は太古の昔から、共喰いをしてきた生き物なんだから」
キクナをこれ以上混乱させまいと、ラッキーはやさしく子供に言い聞かせるような声で語った。
「太古の昔からカニバリズムの思想は存在する。現代人こそ共喰いは野蛮な行為だと思うだろう、けれど昔はごく当たり前のように行われていた儀式だった。
その証拠にカトリックではミサのとき、パンをキリストの肉。赤ワインをその血として飲み食いする。これもまた、キリストの聖なる力を取り入れたいと思い、食べ、同一化するための行為なのさ」
言われてみればそうなのだ。
ミサで食される食べ物は、キリストの血肉……。
そう思うと、キクナは急に強い嫌悪感を抱いた。
「その他にも、ナチスドイツの現れる前、ユダヤ人を虐殺する目的で結成された秘密結社では、同志がお互いに相手の血をすすっていたという。これも明らかに一体感を得、団結するために行った行為だ」
「それじゃあ、街の外でここ一年程前から騒がれている、喰い殺された遺体が見つかる事件って……」
「そう、犯人は彼女だよ」
よどみのない声で、ラッキーは答えた。
そんな……あの美しい顔の少女が、そんな悍ましいことをするなんて想像することすらできない。きっと何かの冗談か、悪夢に違いない。そう信じたいけど……。
「そして、彼女は彼を見つけた」
今までキクナに向けていた視線をジョンに移した。
「彼女は彼を喰うことで、彼と一つになろうとしている。彼女があれほど人を好いたことはないだろう」
歓声は最高潮に達している。
闘うものたちの闘志を掻き立てるように、地団太を踏み、歓声を上げ、拍手が巻き起こる。その光景は現代によみがえった、コロッセオ。客観的にその光景を見ると、異常以外の何物でもない……。
古代ローマで催されていた剣闘士の闘いを、キリスト教徒が非難したという。けれど、称賛されるどころか、そのキリスト教徒は酷い拷問の末に殺された。今のキクナにはそのキリスト教徒の気持ちが痛いほどわかる。
きっと、今のこの状況がそれなのだ。
黒服たちは古代ローマ市民のように、二人の剣闘士、ジョンとレムレースを観ている。狂っている……。
そう思うのに、キクナにはどうすることもできない。ただ、黙ってどちらかが殺されるのを見ていることしかできないのか……。
レムレースは微笑みを浮かべ、ジョンとの距離を詰めた。
五メートルほど開いていた距離が、瞬きの間に縮まる。
「もう、撃たれたという傷はふさがったみたいで何より」
涼しい声でいいながら、レムレースは横一線に蹴りを放った。
ジョンは体をのけぞらせ、後ろ向けに手をつく。
地面についた手で体を支えて、ジョンも負けじと蹴りを放った。
空中に浮くレムレースは避けることなどできるはずがない。と思われたが、ジョンが蹴った足をクッションのように受け止めて、そのまま足をひねった。
勢いよくジョンは半回転してうつ伏せにカーペットに叩きつけられる。
「もう終わりかしら?」
膝の関節を固めて、レムレースは舌なめずりをする。
仮面をかぶっているせいで、ジョンの表情まではわからない。
「もっと楽しませてくれると思ったのに」
刹那、ランプに照らされたホールの中央で、キラリと光る一筋の光が閃光のように走った。光と同時にジョンの膝を固めていた、レムレースの左二の腕から血しぶきが飛ぶ。
目を見開き、命の危機を察知した動物のような速さで、レムレースは即座に飛びのいた。
「どういうこと……」
レムレースはジョンと距離を取り、自分の左二の腕を抑えた。
透き通るように白い少女の腕を伝い、中指から大量の血がカーペットに吸い込まれる。自分が血を流していることが信じられない、という風にレムレースの瞳は動揺に揺れていた。
「何でッ、何でッ、何でッ、何で切れるのよッ!」
気が狂ったようにレムレースは叫んだ。切られれば血が出る、そんな当たり前のことにレムレースは混乱していた。今まで冷静沈着だった少女は気が狂ったように叫び散らす。
ジョンはじらすようにゆっくりと起き上がり、右手に握ったナイフに付着した少女の血を払った。血は想像以上に飛び散り、囲んでいた数人の黒服の顔に血の雨を降らした。
少女は眼を細め、ジョンの握るナイフに目を凝らした。
宝石のような鋭く細いきらめきを放ち、ランプの灯りの中怪しく光っているナイフを忌々しそうにレムレースは見た。
「銀のナイフ……どうしてあなたがそのことを……?」
信じられないというように、レムレースはジョンの顔を見る。けれど、ジョンがどういう顔をしているのかなど仮面の上からわかるはずもない。
「そう、そう、そう、面白くなってきたじゃない。こうじゃなくちゃダメよね。わたしはあなたをあなどり過ぎていた。あなどりが気のゆるみを招いた。喰うか、喰われるか、命のやり取りをしているのに。これでこそ本当の闘いだわ」
今さっきまで混乱に歪んでいた顔が嘘のように、恍惚に目を細めて、レムレースは自分の右手についた血を舐める。
ジョンは刃の部分に装飾がほどこされた、ナイフを構えてレムレースと向き合った。
「油断していたわたしが悪かったわ。あなたを見くびり過ぎていたみたい。だけど、これでいい勝負ができそうね」
少女の左二の腕から出ていたはずの、大量の血が止まっていた。
神経まで届くほど、深く切られていたはずだ。
何かで縛り止血しない限り、こんな早く止まるはずがない。
けれど、夢などではなく血は止まっている。
ドレスの裂け目から、赤黒く割れたレムレースの肉が見えた。
少女は血の滴った左腕を勢いよく振り上げて、血を空に飛ばす。
しばらくすると少女の血が雨となり降り注ぎ、それを試合開始の合図にしたかのように、再びレムレースは踏み込んだ。
それは今さっきよりも格段に速く、キクナの眼でとらえるのは困難なのほどだった――。