case181 アメとムチ
過去。自分の忘れてしまった、記憶のすべて。
自分でも知らないことを、どうして神父が知っているというのだろう……。いったい……この人は何者なのだろうか……?
「A1028、それがあなたの番号です」
「A1028……? 番号……?」
ニックは口にわだかまった言葉を、転がすように呟いた。
「そうです。名前みたいなものです。あなたは、北の実験施設から、逃げ出してきたのです」
ニックは夢で見た光景を思い出していた。
大地が白く覆われ、赤い鮮血がまだら模様に染め上げる。
赤く染まった、白い少女が自分に迫る。
自分を助けてくれようとした、女性を置いて逃げ出した。
「あなたはその施設の人々を殺戮して、逃げ出したのです」
違う……違う……。
ニックは首をゆっくり振り、心の中で否定した。
けれど、あの白い少女も自分が犯人だといった……。
あれは、夢ではなく現実で起きていたことだった……間違いなく……。
「あなたは施設の人々を皆殺しにして、逃げ出したのですッ」
「違う……。違う……。おれは……やってない……」
「いえ、あなたは殺したのです。罪もない、子供たちを殺したのです」
「おれはやってない……」
ニックは動揺で震える声で、否定した。
神父は方眉を吊り上げる。
「では、どうして、逃げ出したのですか? 世界でただ一人、血の繋がった姉を置いて?」
「あね……おれに姉がいたの……?」
「ええ、あなたには、姉がいるのです。何を隠そう、あなたがここに来るように仕向けたのは、あなたの姉です」
神父がそういうとほぼ同時に、鉄とびらに閉じ込められていた、カノンが蹴りを交えながら叫んだ。
「何言ってんだっ。ニックはニックだッ。A1028なんてわけのわからない名前じゃねえッ」
怒り狂ったようにバンバンと固いとびらを蹴飛ばす。ドラム缶を蹴るような余韻の残る音が地下中にこだました。けれど、神父は何も聴こえていないかのように、見向きもしない。
「まだピンとこないようですね……あなたには、記憶を取り戻してもらわないと困るのですよ」
「どういうこと……?」
「北にあった施設では――。あなたが育った施設では、薬を多用し殺戮兵器を作ることを前提に、実験が進められていました。
その時代のことは、幼いころの記憶のように、殆ど憶えていないことでしょう。それも、そのはずです。人間を極限まで、獣に近づけることで、心をもたない、思考をしない。つまり記憶を持たないことで木偶になるのです」
気が狂ったように、神父は饒舌に語り続ける。
「けれど、そのやり方では、駄目だった。感情を消すだけでは……。感情をもたなければ、何者も従ってくれない。ある日、人間から感情を奪うことが、どれだけ悲惨な結果を生むか、露呈してわかったのです」
いつの間にか、カノンがとびらを蹴る音がしなくなっていた。
カノンも神父の話に聞き耳を立てている。
「試験体二体が暴走してしまったのです。何とか取り押さえることができましたが、多数の死傷者を出してしまいました……」
ニックは自分が見た夢に、神父が語る話の片鱗を見たような気がした。自分がベルトで冷たい台の上に縛り付けられているとき、となりにいた二人の子供たちが化け物のような姿になった……。
その化け物は鋭くとがった爪で、自分の心臓を……。考えるだけでも、吐き気がして、貧血になったようなめまいに襲われた。
「その教訓で私たちは気付かされました。感情をなくしてしまっては、駄目なのだと。こんな実験があります。一方は痛みと恐怖でしつけた犬がいます。もう一方は、愛情を注いで可愛がり、しつけた犬がいます」
神父は両の手のひらを天秤のように並べて、ニックにいった。
「さて、どちらが主人のいうことを従順に聞くでしょうか?」
そんな質問に答えたくなかった……。ニックが目をそらし、無言を通すと、神父は絹を裂くような甲高い声で叫んだ。
「答えなさいッ!」
怯え切った表情で、神父を見るニック。
「あ、愛情を注いだ方が言うことを聞くに……決まっているじゃないですか……」
後半から尻すぼみになり、ほとんど聞き取れないか細い声になっていたが、神父は満悦気味にうなずいた。
「そう。その通りです。愛情を注いだ犬の方が、主人に従順になるのです」
「それが……どうしたんですか……?」
「つまり、我々は間違っていたと気づきました。完全に薬漬けにして、感情というものを一切持たない廃人にするより、愛情を注ぎゆっくりと洗脳し、調教していく方が、主人に従順な兵器を作れる。私の言っている意味がわかりますか?」
わかりたくなかった……。
そんな、頭のおかしなことわかりたくない……。
そう考えるニックなど、気にも留めずに神父は続ける。
「薬だけで調教していた世代を第二世代と我々は区別しています。そして、その教訓を生かし今度はカウンセラーを入れ、愛情を注ぐようにした子供たち」
ニックは話についていけない。
意味も分からない話を聞き過ぎて、頭から熱を発する。
「けれど、今まで行っていた、実験を昨日今日で変えることはできません。それで、二グループに分け、観察することにしました。一方に愛情を注ぎ、もう一方は以前のままです。
そして、数年様子を観察しました。はじめの一二年では何も変化は起きていないように思いましたが、年数が経つうちに目に見えてグループ分けした二グループに変化があらわれました」
神父は努力が認められた、スポーツ選手のような清々しい微笑みを浮かべる。
「薬だけで支配した、子供たちには何年経っても適合者は現れませんでしたが、愛情を注いだもう一方のグループには目に見えて、確かに変化が確認できました。
適合者は現れませんでしたが、主人の命令で力をコントロールできるようにはなったのです。数百年の研究以来はじめてのことでした」
本能が逃げろと、警鐘を鳴らす。
逃げたい……逃げたい……けれど、カノンを置いては逃げられない。もう二度と、ノッソンのときのように、家族を置いて逃げたくない……。
「けれど、愛情を注ぐことにより欠陥的な失敗を引き起こしてしまいました。優しくなり過ぎたのです……。道徳という感情が目覚めてしまった。そうなってしまっては、人は殺せません……」
神父はヘビのように鋭い眼つきで、ニックを見た。
「我々は愛情を注ぎつつも、深く干渉はしないギリギリのラインを何年も試行錯誤していきました。そして、とうとう実験は成功したのです」
神父はそういって、手の平でニックを示す。
「A1027とA1028。ニックくん、あなたたち姉弟です。あなたたちは完全に体内に住まう獣をコントロールできる選ばれた人間だったのです」
微笑みを浮かべていた、神父の表情が険悪に歪んだ。
「けれど、どういうわけか、ニックくん……あなたは私たちを裏切った。あれだけ、愛情を注いであげた研究者たち、仲間の子供たちを皆殺しにして、あなたは逃げ出した……。それだけならまだしも……記憶を失ったと来ている……」
呆れたように神父は肩をすくませた。
「おれは……殺していないッ……やったのは、少女だッ」
「何を言っているのですか? 彼女は暴走するあなたを止めようとしたのです。あのまま、あなたが暴走を続けていれば近隣の町に甚大な被害を出していたでしょう。そして、我々の研究は露呈した」
ニックはもうわけがわからなくなっていた。いや、はじめから理解などできていない。けれど、自分が見た夢と神父の話はあまりに類似しすぎている。夢で見た光景は自分の潜在意識が見せていたものなのだ。
わずかに夢と神父が語る話は内容がことなった。
本当に自分が夢で見た悲惨な出来事を引き起こした張本人なのだろうか……。自分は罪の意識から逃れるために、あの少女にすべての責任をおしつけてしまったのだろうか……。
もう、嘘なのか誠なのか、夢なのか現実なのか、わからない……。
いったい……何が事実だというのだろうか……?
神父は逡巡するニックを横目に、カノンが閉じ込められている鉄とびらへと歩み出した――。