case176 今、これから、すべてを話そう
地獄の門は開かれた――。
邪悪で禍々しいオーラを放つ、その階段はまるで生きているかのように呼吸している。風が地下に流れ込み、肌寒さを感じた。
「さあ、行きましょう」
神父は階段の壁に備え付けられていたランプをとり、火を灯した。
ぽわっと灯が、石積みの壁面を照らし出した。壁は傷み、凹みや崩れが目立った。ニックは固唾を飲み込み、神父の後に続く。
ニックが階段に足をのせると同時に、祭壇は動き再び閉ざされた。何か仕掛けのようなものを、神父はいじったのだ。辺りは一瞬で暗くなり、頼れる灯りは神父が持っているランプだけになった。
神父が灯りに照らしだされている。
目で付いてきなさいと訴えて、神父はどこまで続くかわからない階段を下りはじめた。風が下から押し上げるように吹き抜ける。平均にそろっていない、階段は歩きずらく、気を抜けば足を踏み外しかねなかった。
「この、地下は中世のころ、石室墓として使われていました。今では、別の用途で活用させてもらっていますが」
神父は階段の壁に備え付けられている、ランプに火を灯しながら階を下っていく。螺旋階段になっており、上から順に煌々と照らされ、闇が地下に向かって逃げていくように思えた。
「か……カノンはこの下にいるんですよね……?」
「はい」
ニックは神父の言葉を信じ、階段を下る。下りはじめて三十段に達したとき、地下の方から確かに聞き覚えのある声を聞いた。
「カノンッ!」
ニックは叫んだ。
叫びはこだまし、何とか意味をとどめながら地下に消えた。
それから間もなく、カノンの声がこだまで帰ってきた。
「ニックッ! ニックッなのかッ」
「ああ、ああ、そうだよッ。今そっちに行くから待ってろよッ」
ニックは焦る気持ちを抑え、神父のゆっくりとした歩幅に合わせて進んだ。本当なら、今すぐにでも駆け付けたかった。けれど、神父が持つランプ以外に地下の暗黒を照らす光はなかった。
それから十段更に下ると、階段はなくなった。
地下に到着した。
けれど、辺りは薄暗くほとんど何も見えない。
バンバンと鉄を打つような、耳をつんざく音が鳴っている。
「カノンッ、どこだ?」
ニックは恐る恐る、声を出すと鉄を打つような音が止まりカノンの声が聞こえた。
「ここだ。ここだよ。早くここを開けてくれ」
カノンの声は鉄とびらの向こう側から、聞こえてきた。
「いま助ける、いま助けるよ」
ニックは神父に懇願して、とびらを開けるように頼んだ。
「焦らずとも開けてあげます。けれど、私の頼みを聞いてからです」
「頼み……?」
神父は壁伝いに地下室を進んだ。
しばらくすると、チカチカとニ、三回明かりが点灯して、白熱電球の人工的な明かりが、地下室を照らした。薄暗かった地下室は、昼白色に照らし出される。
ニックは明るくなった地下室を見て、我が目を疑った。
壁面には丸柱と丸柱どうしが、アーチを描き天を支えているようだった。壁一面には本棚が敷き詰められ、ハードカバーの本がぎゅうぎゅうに並べられていた。
地下室の中央には年季の入ったテーブルが置かれ、その上にも山のように書類が積み上げられていた。
「これは、交換条件です」
神父は感情の欠落したような、冷たい目でニックを見すえた。
「交換条件……」
「そうです。カノンくんを解放する代わりに、私に協力してください」
神父はニックに迫り寄った。百六十五ほどの身長しかない神父だが、迫られると得体の知れない威圧感があった。
ニックは警戒の色をあらわにして、神父から離れる。
「おいッ! ニックに何をするつもりだッ。ニックに手を出したらッ、しょうちしねえーッからなッ!」
カノンは鉄とびらを、何度も蹴った。檻に閉じ込められた猛獣を恐れないように、とびらの向こうで暴れるカノンのことを神父は、虫ほどにも気に留めていなかった。
「どうします。私に協力してくださいますか」
ニックは丸柱に背中をぶつけた。
もう、これ以上後下がりはできない。
「ニックくんがおとなしく私に協力するなら、カノンくんをあの部屋から出してあげます」
「ほ、本当ですね……」
「本当です」
ニックはカノンが閉じ込められている、鉄とびらを横目に見て、意を決した。
「わかりました……。おれは……何に協力すればいいんですか……?」
神父は不気味に微笑んだ。
聖職者とは思えない、薄気味悪い微笑み。
「あなたに記憶を取り戻してもらいたいのです」
「記憶を取り戻す……?」
「ええ、そうです。あなたは記憶を失くしているのです。記憶を失くす前のあなたは、レムレースに次ぐ傑作だったにもかかわらず――」
確かにニックが憶えているはじめての記憶は、街の道端――。
ごみのように膝を抱え、ひもじい思いで道行く人々を見ていた。
思いだしたくもない、惨めな思い出だった。
神父が言うように、その記憶より前の記憶を自分は持ち合わせていない……。
「今、あなたにすべてのことを話しましょう。そして、今、このときより、あなたは獣に戻るのです」
神父は一度言葉を止め、力強くいった。
「今こそ、レムレースのように完璧な、新たな人間に生まれ変わるのです」