case175 刑事としてのプライドというものがないのか
話を聞いているそばから、少女の口からは笑みが漏れていた。
レムレースの世話役、ヤチカは焦点の定まらない瞳孔で、必死に何かを伝えている。その姿をキクナは遠めに見ていた。
いったい何を言っているのだろう。
ヤチカの様子から、ただごとではないことをキクナは感じ取った。
普段表情を変えない。人がとなりで死んでいようと、無表情を通すであろう少女は恍惚とした表情でヤチカの話に聞き言っていた。
「そう、そう、そうなのね」
水が滴るように輝く、銀色の髪の少女は何度も、何度も、何度も、うなずき「そう」と繰り返した。
ヤチカは一歩下がり、首を垂れて少女の返事を待つ。
大粒の汗を額にうかべていることを、キクナは見た。
「やっとね。やっとなのね。面白いじゃない。やれるものならやってみなさい。わたしはこのために、今まで準備してきたのだから」
少女は天を仰いで、両手を胸の前でクロスした。
何か愛おしいものを抱きしめているように、キクナには思えた。
「ヤチカ……大丈夫……。顔色が悪いけど?」
キクナはヤチカに歩み寄った。
「え……ええ……。大丈夫です」
ヤチカの態度がいつもと違うことは、鈍感なキクナでもわかった。冷や汗で額に髪が貼りつき、目もとに小じわが浮いている。
キクナはヤチカの首もとに視線を落としたとき、一筋の赤い線ができていることに気付いた。はじめは痣か何かだと思ったが、まだできて間もないことに気付く。
刃物のようなものを押し付けられて、できたような傷痕だった。
薄皮が切れただけだが、血が滴った痕がくっきりと残っている。
「どうしたの、その首の傷は?」
ヤチカは何事かと、自分の首筋に触れた。
「え……あ……これですか……」
キクナが首の切り傷のことに触れると、ヤチカはどう答えていいかわからないという風に当惑をあらわにした。
「これは……その……さっき服をとりに言ったとき、道端に突き出ていた針金で引っかけたんです」
「針金が道端に突き出てたの」
「え、ええ……はい……」
「危ないわね。だけど、目を突かなくてよかったわ。もし、目を突いていたら、大変なことになってた。ちゃんと、前を見て歩かなきゃダメよ……」
キクナはヤチカの話を真に受け、自分のことのように感受した。
「深くはない傷だけど、ちゃんと消毒しなきゃいけないわ」
「はい……今から消毒してまいります……」
傷の話にはあまり触れられたくなかったのか、ヤチカは逃げるようにキクナの部屋から出ていった。レムレースとヤチカの様子がおかしいことに、不信感を覚えキクナは問うた。
「ねえ。ヤチカは何の話しをていたの?」
「知ってどうするの?」
レムレースは浮き立つ心を抑えているかのように見えた。
「いや、別に気になって」
「好奇心は猫をも殺す、よ。あなたは知らない方がいいわ。知ったら、あなたが傷つくと思うから」
レムレースはそういって、また本を開き、椅子に座った。
「そう言われると余計、気になるじゃない……」
レムレースは疑問だけを残し、何も語ろうとはしなかった。
*
翌日、キクナは持ってきてもらった自分の服に着替えた。
白無地のシャツの上に、カーディガンを羽織る。
スカートはベージュの落ち着いた色合いを選んだ。
やはり、ドレスなんかより、カジュアルな服装の方が自分には性に合っていると再確認した。
けれど、レムレースは面白くなさそうに、最後まで愚痴をこぼしていた。何と言われようと、もうドレスは着ない。
「やはり、キクナさんはそういう服の方が似合っていますね」
朝食の席で、ラッキーはキクナを褒めちぎった。
例えお世辞だとわかっていても、褒められて悪い気はしない。
キクナは正直に喜びをあらわにした。
「ありがとうございます。レムレースには悪いですけど、自分にはこういう服の方がやっぱりいいです」
ラッキーは屈託のない少年のように微笑んだ。
「それでは、食事にしましょうか」
おや、とキクナは心で声をもらした。
昨日まではあれだけ離れていた、距離が縮まっている。
普通の食卓のように、顔と顔を向かい合わせ、大声を張り上げなくとも会話ができる距離になっていた。
「昨日、キクナさんが言ったように、僕たちだけのときは向かい合って、食事をしましょう」
「ええ、そうですね。絶対こっちの方が料理も美味しいですよ」
その日から、ラッキーとレムレースとキクナはお互いに向かい合って食事をとるようになった。
食事中に会話をするのはマナーに反するのだろうが、不思議なことに食事中の方が話が盛り上がった。
食事も終わりに差し掛かったとき、食堂のとびらが開き黒服の一人がラッキーに耳打ちをした。
「本当に来たのか――。その刑事には申し訳ないけど、帰ってもらってくれ」
黒服は「承知しました」と頭を下げてお尻からとびらに消えた。
「刑事?」
「ああ、詳しくは言えないけど、実は刑事が自分たちの捜査に協力しろと、昨日訪ねて来たんだよ」
刑事がマフィアに協力を願うなんて……刑事としてのプライドというものがないのか、とキクナは口には出さないが強い憤りを覚えた。
「へ、へえ……。それで?」
「それだけだよ」
キクナは苦笑いを浮かべるしかない。
けれど、話には聞いていたがジェノベーゼファミリーは警察機関にも、コネクションを持っているのか。
何事もないように、普通に会話をしているが、今自分の目の前にいる人はマフィアのボスなのだ。普通に暮らしていれば、一生言葉を交わすことのない人なのだ。
話をすれば、するほどこの男がマフィアのボスだとは思えなかった。
自分が思い描いていた、イメージとは百八十度違っている。
マフィアに協力願いをする、刑事とはどんな人だろう。
キクナはその人の顔を見たいという思いを強く抱いた。
食事が終わり、部屋への帰り道キクナは無駄だとわかりつつも窓の外を見た。窓からは、庭一面を見渡すことができた。
改めて確認して思う、庭中至る所に黒い服を着た人々が徘徊していた。自分はこれからどうなるのだろう。
ジョンに出会えたとして、無事に解放してもらえるという保証もない。先が見えない不安に、キクナは押しつぶされそうだった。当然、マフィアのアジトに訪ねてきたという刑事は見えなかった――。