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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
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case174 嵐の前の静けさ

 キクナの住んでいるアパートは繁華街から離れた、街外れにあった。レムレースの言いつけで、ヤチカはキクナのアパートに向かう。


 服などわざわざ取にいかなくとも、自分たちの物を使えと言いたくなるが、お嬢様には逆らえなかった。もし逆らおうものなら、どうなるか考えるだけで恐ろしい……。


 ボスが彼女を連れて帰ってきたのは、一年ほど前のことだった。

 ボスはレムレースの世話を自分に任された。期待に応えようと、ヤチカは意気込んでいた。


 けれど、レムレースは暴君以外の何物でもなかった。自分の思い通りにならなければ、家畜でも殺すように仲間たちは殺された。殺されずとも、拷問のようなことをされる……。


 そのことで精神を壊した、世話役は数知れず。

 ボスがレムレースの暴虐非道な振る舞いに気付いてからは、かなりましになったが、機嫌を損ねると以前のようになりかねない。世話役はいつも、死と隣り合わせだった。


 とりあえず、早く言い渡された用件を済まして帰らねば。

 ヤチカは黒いフォルクスワーゲンを飛ばし、キクナのアパートに向かった。


 知らされた住所の近くにやってきた。

 この辺り一帯は同じようなアパートが軒を連ね、土地勘のある者でなければ目的の番地まで辿りつけないだろう。しばらく、同じ場所を行ったり、来たりしてやっとそれらしきアパートを見つけた。


「これか」


 アパートの横の歩道に乗り上げるようにして、フォルクスワーゲンを止めてヤチカは紙の住所と照らし合わせる。


 間違いないようだ。

 入り口の壁に固定されたポストの一か所だけ、郵便物が溢れかえっている。キクナ・ランドーズという立札を確認した。間違いない。怪しまれないように、なるべく早く用事を済ませなければ。


 預かってきた鍵を懐に確かめて、ヤチカは通路を進んだ。

 幸いなことに、入居者とすれ違うことはなかった。鍵を差し込み、何食わぬ顔でキクナの部屋に入る。カーテンは閉め切られていた。室内は薄暗く、カーテンに透けた夕焼けが、部屋をほんのりと(あか)く染め上げている。


 服はどこにある。綺麗に整理された部屋を一通り見回して、服を仕舞っていそうな場所を予想する。


 部屋の角。カーテンが閉め切られた、窓のとなりにチェストが置かれていた。服が入っているとしたら、あのチェストしかない考えられない。


 チェストの上から順に開けてゆく。

 一番上は小さな引き出しが三つあり、それぞれに下着、靴下、などが律義に収納されていた。一応下着も持って帰った方がいいだろう。


 今までは、館にストックされていた下着を使ってもらっていたが、自分のがあればそれに越したことはない。


 とりあえず、懐に隠し持っていた袋を広げて、手づかみで入れていく。続いて下の引き出しを開けた。ラフな服などが、たたまれて積み上げられていた。


 こちらも袋に入るだけ、押し込んだ。

 一番下の引き出しには、真ん中に仕切りが付いており、スカートとズボンが分けて収められていた。スカートとズボンを入れ終えると、サンタクロースが担いでいる袋のように膨れ上がっていた。


 こんな袋を担いで、住人でもない人間が廊下をうろついている姿を見られれば、確実に記憶に残るだろう。


 いや、別に見られようとかまわないか。と冷静に思ったそのとき、誰かが背後に立つ気配を感じた。そんなはずはない……。この部屋は無人だった。


 きっと自分の思い過ごしだ。

 振り返ろうとした刹那、思い過ごしなどではないと確信した。手首をつかまれ、そのまま壁に押し付けられた。


 首に金属のような、冷たい何かが添えられた。

 突然の事態にヤチカは、何も考えることができず、ただ恐怖だけが頭を埋め尽くした。暴れようとしたが、後ろでつかまれた腕を動かすことができず、関節をそらされた。


 これ以上腕をひねられれば、折れてしまう。

 折れるか、折れないかの、ギリギリを腕は行き来していた。


「鍵を持ってたな。泥棒ではないようだ」


 低い男の声だった。壁に押し付けられたままでは振り返ることもできず、男の顔を確かめることはできない。


「どうして、服なんか盗む。ここに住んでいた、女を知っているのか?」


 首に鋭い痛みが走った。

 その痛みで、首に押し付けられた金属のようなものが刃物であることがわかった。パニックで暴れ出しそうになるが、万力のような力で押さえつけられ身動き一つできない。


「白を切るようなら、この場で殺す」


 声をあげて、叫び、助けを乞おうとしたが、首筋に当てられた刃物が刻一刻と首に食い込んでいく感覚から口がかじかみ、声一つ上げられなかった。本気なのだとヤチカに知らしめた。


「おまえはジェノベーゼの者か? 叫んだら、この場で殺す。嘘を言っても同様だ。けれど、本当のことを話すなら、見逃す。さあ、話せ」


 首筋から刃物が外された、

 金属の感触がなくなると、汗ではないもっとドロドロとした何かが首筋を伝い落ちた。


 もし、ファミリーを売るようなことがあれば、無事に帰ったとしても殺されるかもしれない……。けれど、答えなければ、確実にこの場で殺されだろう。


 どちらを選ぼうと、死ぬことに変わりはないかもしれない。

 けれど、まだ死ぬ覚悟などできていないし、死にたくなかった。


「ここに住んでいた女をどこへやった」


「わ、我々の館だ……」


 ミシミシと万力で締め付けられているかのように、つかまれた腕が(きし)んだ。歯を食いしばって、必死に痛みを堪える。


「どうして、ここに住んでいる女がおまえらの館にいるんだ?」


「し、知らない……お」


 言いかけて、ヤチカは口ごもる。自分はファミリーを売っているのだ……。裏切りは死に値する。けれど、死にたくない……。生と死が引き起こす感情の昂ぶりで、ヤチカは例えようのない涙を流した。


「お嬢様が……連れてきたんだ……。それ以上のことは本当に知らない……」


 時間にして数秒のことだっただろう。男は押し黙った。けれど、その数秒間、ヤチカは肉食動物に牙を突き付けられた、小動物のような気分を味わった。


 きっと、肉食動物に食われる前の、草食動物はこのような気持ちなのだろう……。


「そのお嬢様に伝えろ。今すぐ、女を解放しなければおまえを殺すと」


 落ち着き払ったような声だったが、ヤチカにはわかった。

 男の心は溶岩が煮えくり返るように、沸々今にでも爆発しそうな怒りに燃えていた。嵐の前の静けさとは、このことをいうのだと思った――。

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