case173 食事のマナー
長い廊下を、終わりの見えない悪夢を、無我夢中で駆け抜けた。履きたくもない小奇麗な靴は、足に合わず、靴擦れを起こしている。
顔を痛みに歪めながらも、キクナは必死に走った。どこまでも続く長い廊下を進んだ先に何があるというのだろう……。この館からは逃げられるわけないのに……。
キクナはわかっていた。
この館から抜け出す方法はないのだ……と。もし抜け出せたとしても、外には沢山のマフィアが眼を光らせている。後ろから、急所を蹴られて怒りをあらわにした黒服が鬼の形相で追ってきていた。
履きなれない靴で逃げ切れるわけもなく、キクナは廊下の真ん中で捕まった。
キクナの腕を乱暴につかみ、黒服は怒鳴り声を上げた。
「テメェッー! よくもやりやがったなッ。女だと思って下手にでてりゃあッ」
黒服は手を振り上げた。
殴られる……。キクナは顔を背け、目を強くつむり覚悟を決める。
けれど、いつまで待っても頬を打つ衝撃は襲ってこなかった。
片目だけをわずかに開き、黒服の様子をうかがった。
黒服は目を白黒させながら、呆然とキクナを見ていた。いや、違う――キクナの背後にいる別の誰かを見ているのだ。
「あなた、その手は何?」
「あ……。いや……」
黒服は上げていた手を慌てて、引っ込めた。
キクナはゆっくりと、振り返る。
「それと、キクナもこんなところで何をやっているの。今からあなたのところに行こうと思っていたのだけど」
レムレースという名の黒いゴシックドレスを着た少女は、涼しい笑みを浮かべて、キクナを見上げていた。
「わたしは帰る。もう一週間よっ。ジョンにも会えないし。いったい、いつになったら、家に帰してくれるのよ?」
「いつになるかはわからないわ」
少女はキクナの気持ちなどお構いなしに、首をかしげた。
「心配しなくてもジョンには会わせてあげるわよ。いつになるかはわからないけど、必ず遊びに来るから。そのときに会って、話をすればいいんじゃないこと。
それまでは、おとなしく待ってなさい。丁重にもてなしてあげてるじゃない。何が不服なの?」
不服なことなど、山ほどある。
けれど、逆らっても好転しない……。キクナは肩を落として、諦めた。
「わかったわ。だけど、もっと普通の服が着たい」
「どうして? よく似合っているわよ」
「いえ。わたしにはこんなゴシックドレスは似合わない。普通の服が着たい」
「せっかく、あなたのために色々なドレスを用意させたのに」
「わたしはあなたの着せ替え人形じゃないわ」
キクナが強く言うと、少女は残念そうに眉を落とした。
「わかったわ。だけど、普通の服はないのよね」
「嘘よ。普通の服ぐらいあるでしょ」
「いえ、本当に普通の服なんてないのよ。わたしの服はこのようなものばかりだし、この館に女なんてそれほどいないもの。メイドは特注のメイド服ですし。部下の女たちも、黒いスーツしか着ないもの」
キクナは疑わしそうに少女を見た。
けれど、キクナの眼では少女が嘘を言っているのか、誠を言っているのかわかるはずもない。
「嘘じゃないわよ。嘘だと疑うなら、館中のクロゼットというクロゼットをひっくり返してみればいいわ」
「わかった。わかったわよ」
このドレスで過ごさなくてはならないのか、と悲観していたとき少女はいった。
「何なら、あなたの部屋から、服を持ってきましょうか」
「わたしの部屋から?」
「そう、新しい服よりも、自分の着なれた服の方があなたも安心できるんじゃない」
「確かに新しい服より自分の服の方がいいけど……住所知っているの?」
試すように訊くと、少女は口元を白く優美な手のひらで隠していった。
「知っているわよ」
「どうして、知っているのよ?」
「そんなこと、どうでもいいじゃない。もし、服がいるのなら、ちゃんと女に取りに行かせるけど。どうする」
キクナは狐疑の眼を向けたが、渋々お願いした。
「それじゃあ、お願いするわ」
「それじゃあ、わたしから頼んでおくから、食事にしましょ。ラッキーが首を長くして待っているのよ」
少女はキクナの手を引いた。
歩みを合わせて、廊下を進みはじめたとき思いだしたかのように少女は振り返り、無言で立ち尽くしていた黒服にいった。
「あなた、あとわたしの部屋までいらっしゃい」
フクロウのように首だけをかたむけて、いうと黒服はブルブルと肩を震わせ消え入りそうなほど虚ろな目をしていた。
*
レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵のような、長いテーブルの両端に座り無言で食事をとる人々。その光景には最後の晩餐のような、賑やかさはなかった。
人数も十三人ではなく、三人だけ。
食事中におしゃべりはダメだと言うが、おしゃべりのない食事はわびしいものである。フォークやナイフ、スプーンなどが食器を打つ、甲高い音だけが広すぎる食堂に響くのみ。
「どうして、これほど、距離をとる必要があるの? 十メートルくらいは、離れていると思うけど。これほど離れて食事をして美味しい?」
キクナは目の前にいるけれど、遠く離れたラッキーにいった。
「美味しくないかい? 一流のシェフが腕によりをかけて作っているんだけど」
「いや、美味しいけど……美味しいんだけど……何か違うんじゃないかしら。あなた達いつも、こうやって両端に座って食べているの?」
「そうだけど」
ラッキーは肉に添えていたナイフとフォークを、プレートの両端に置きキクナの話に耳をかたむけた。
「もっと、近づいてお互いに向かい合って食べれば、もっと美味しくなると思うけど」
小さな声では届かないので、キクナは腹から声を張り上げて叫ぶようにいった。ラッキーも同じで、腹から声を張り上げて、叫ぶように言い返す。
「つまり、こんな長いテーブルなんかで食事をせずに、もっと小さなテーブルで向かい合って、おしゃべりをしながら食べろと言いたいのかい?」
丁度中央に座ったレムレースの前を、二人の声が行きかった。
少女は何食わぬ涼しい顔で、ステーキをナイフで切っている。
「僕もその方がいいと思うんだけど。マナー的にはこちらの方が正しいだろ。僕は成り上がり者だから、周りに舐められないようにマナーはしっかりと学んだんだ。その習慣が身に刻まれて、こんな堅苦しい食事になったんだろうね」
ラッキーは声を張り上げて、いった。
このようなテーブルでは、話をするだけでエネルギーを使ってしまう。
「社交の場だったら、これでいいと思うけど。普段、あなたとレムレースだけのときは、もっと小さなテーブルで向かい合って食事をすればいいんじゃないかしら」
「言われてみれば、そうだね。それじゃあ、今日からそうすることにするよ」
家の中にいて、このように大声で話し合っている光景は、他者が見れば滑稽以外の何物でもなかった。
夕食が終わり、しばらくすると見覚えのある服が部屋に持ち込まれた。キクナに与えられた部屋で、本を読んでいたレムレースは女性黒服の様子がおかしいことに気付いた。
「どうしたの? 震えているわよ」
レムレースは本を閉じ、女性黒服に歩み寄った
女性黒服はかじかんだ口を、少女の耳に寄せる。
話を聞き終えた、レムレースは楽しそうに笑っていた――。