case171 ニックの変化
祭壇の上には羊皮紙の紙をハードカバーで閉じた、聖書が置かれていた。聖堂の中は、耳を澄ませば天使の歌声が聴こえてきそうなほど神々しい雰囲気に包まれていた。
とても、あの日の夜に目撃した目を疑いたくなるような、出来事が起きたとは思えない。セーラとマークは本当に、獣に変えられてしまったのだろうか……。
目撃した本人ですら半信半疑の状態なのだから、他人に信じろと言う方が無理な話なのだ。カノンの姿はないかと、辺りに目を配らせていたときに背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「おい。こんなところで何やってんだよ」
聖堂のとびらを背にして、スカラと少女が共に立っていた。
確か、この少女はスカラといつも一緒にいる、名前は確か……ユシエラと言ったと思う。
「何やってるんだ?」
「あ、いや……」
言うべきか、どうかニックは思い悩んだ。
けれど、以前とは違いスカラは自分たちに協力的だ。
はじめから協力的だったが、自分たちが突っぱねていたのだ。
話しても、大丈夫だ。
「実は……カノンが消えたんだ」
ニックがそう言った途端、スカラは目を引きつらせて低い声で怒鳴った。
「だから、言っただろッ。ここから逃げろってッ」
ニックは何も言い返せなかった。
「ごめん……」
けれど、その怒りも一時的なものだったのか、怒るにも値しないと考えたからなのか、スカラの怒りはすぐに収まった。
「まあ、済んじまったことをいってもしょうがない。カノンはもう、諦めろ。ここにいればいつかみんな。当然俺もいなくなるときがくる」
どうして、スカラは……いや、スカラだけではない、ここにいる子供たちはそのような運命を受け入れているのだろう。
もしかして……月に一度行われるあの健診は洗脳の役割のようなことも担っているのだろうか……。ニックはあのとき打たれた注射のことを思い出し、身震いした。
「そのことがわかっているのなら、どうして、スカラもじっとそのときを待っているんだよ?」
口に出すつもりなどなかったが、頭で思ったことがついあふれ出た。
「だから、前にも言っただろ。俺はここで物心つく前から育った。籠の中の鳥だ。ここを出たって生きていけない」
「そんなことない。確かに、生きるのは苦しいけど、おれはここまで生きてこれた。チャップが生き方を教えてくれたんだ。だったら、スカラもおれたちと一緒に行こう。一人は無理でも、みんなとなら生きられるはずだ」
そこまで言ってしまってから、自分がなんて恥ずかしいことをいっているんだ、と顔から火が出そうな思いだった。スカラは悲しそうに、視線をとなりに立つユシエラに向けた。
「ああ、ユシエラがここを出たいっていうなら一緒に行く。けど、ユシエラはここが好きなんだ。ユシエラを置いて、俺はおまえらと行くことはできない」
ニックは二人を交互に見つめて、訊きづらそうに問うた。
「二人はどういう関係なの?」
「ユシエラと俺は兄妹みたいなものだ。物心つく前から、ずっと一緒にいる」
感情というものをどこかに置き忘れてきてしまったかのように、ユシエラは無表情だ。
「ユシエラは感情をなくしちまったんだ……」
ニックの心を読んだように、スカラはいった。
「感情をなくした……?」
いつもはふてぶてしい顔をしている、スカラはユシエラの話をするときだけ悲しそうに顔を歪める。
「どうして、俺が獣のことを知っていると思う?」
ニックは訳がわからず、首を振るしかなかった。
「二年前までは、ユシエラも笑ったり、泣いたり、怒ったり、する普通の女の子だった。だけど、ある日を境に突然、笑いもしないし、泣きもしない、怒りもしなくなっちまった……」
そのときのことを思い出しながら、しゃべるスカラの顔を見ることがニックはどうしようもなく耐えがたかった。
「俺はその原因が神父にあることを知っていた。前々から、ユシエラに神父が何かを拭き込んだり、変な薬を飲ませているのを知っていたんだ。だけど、そのときの俺は臆病で、黙認していた……」
スカラは自傷することで、心の安らぎを得ようとするように、唇を噛み切りそうなほど、強く噛んだ。
「俺はユシエラがこうなっちまってから、神父を問いただした……。すると、神父はほぼすべてを話してくれたさ……。子供たちを獣に変えていたことを……。そんなこと話して、どうして俺を生かしていると思う?」
一周回って、スカラは感情を殺したような、静かな表情に戻っている。
「それは、俺が臆病で何もできない、無力なガキだからだ……。その証拠に、その話を聞かされてからも俺は誰かに助けを求めることも、逃げだすこともなく、ここにとどまっている。誰にも、この話を打ち明けたことはない……」
ニックは心の中で首を振った。
いや……スカラ、おまえは臆病などではない……と。
けれど、言葉の頭が、喉につっかえて口に出すことができなかった。
「新しく小さいガキが入ってくるたびに……俺はどうしようもない、無力感と罪悪感に苦しめられる……。小さいガキはここで、養ってもらわなきゃ……結局死んじまうんだよ……。
いつか、化け物にされるとしても、それまでの間ここで楽しい思いをさせてやった方がいいと思ったんだよ……」
今までため込み、ドロドロになってしまった想いをすべて掃除するように、スカラは言葉を吐きだした。
「だけど、おまえらは今まで外の世界で立派に生きてきた部外者だ。だから、おまえらはここにいるべきじゃない。いちゃいけない……。おまえらには未来があるんだ……。こんなところで、人生を無駄にするな。逃げろ……」
苦しんでいたのは、自分たちだけではない。
スカラも自分たちと同じように、自分たち以上に日々苦しんでいた。
どうして、そのことを自分は考えようとしなかったのだろう。
「スカラ、話してくれてありがとう。だけど、カノンを見つけないと。ユシエラがスカラにとって、兄妹みたいなように。おれ達にとってカノンは家族なんだ」
スカラの話を聞き、ニックの意志は変わりかけていた。
この騒ぎを引き起こしている、犯人はわかっているのだ。
なら、逃げるのではなく戦うこともできる――。
逃げるのではなく、戦おう。そして、ルベニア教会のみんなを、この呪縛から解放しよう。逃げるという考えが消えた瞬間だった――。