case169 館の主
キクナは我が目を疑った。ここは……この巨大な建造物は……王城と呼んでも違和感がないほどに巨大で……近づいてはならない場所だということを知っていたからだ。
キクナでも、この王城がどういった場所なのかは知っていた。ここは……ジェノベーゼの館だ……。
焦りと恐怖に引きつる口で、キクナは足を組み窓の外に見入っている少女に諭した。
「ちょっと……ここ、あまり近づいてはいけないところよ……」
言いながら、一抹の不安を感じる。
この不安はどこから、来るのだろう……?
「引き返しましょ……。だってここは……マフィアのアジトよ……」
ウインドウに移る少女の視線が、キクナを見た。
「何を言ってるの? わたし達が向かっているところじゃない」
ウインドウに向けていた視線を、ゆっくりかたむけて少女はキクナに微笑みかけた。
「言っていい冗談と、悪い冗談があるのよ……」
「冗談じゃないわよ」
そう話をしている間に、リムジンは館に到着していた。鉄格子のようなフェンスの前にリムジンが止まると、自動的に格子が上がり、地獄への入り口のような暗く広い空間が広がっていた。
冗談じゃない……キクナはやっと悟った。
慌てて、ドアを開けようと取っ手を引いた。けれど、鍵がかかっているのか、水をつかむように手ごたえがない……。冷や汗が背中を伝った。
「降ろしてッ、降ろしてってッ」
キクナは半狂乱になって、叫んでいた。
そんなキクナとは反対に、落ち着き払った少女は暴れる獣をなだめるような声でいう。
「そんなに暴れることないじゃない。あなたが知らない人の車に乗ったのが悪いんでしょ。親に教わらなかった? 知らない人にはついて行っちゃダメ、って」
今のこの状況を誰が見ても、キクナの方がレムレースよりも年下に映っただろうと思う。
「罠にかかったウサギみたいに暴れなくったって、取って喰いはしないわよ」
リムジンは鉄格子の下を通り抜けて、館の中に入った。
暴れるのはやめたが、思考は混乱して何も考えることはできなかった。ただただ、知らない人の車に乗ってしまった自分の愚かしさを笑うしかない。
リムジンが入ったのは車庫のようなところで、高級車が何台も左右に並んであった。高級車の間をゆっくりと進みながら、リムジンは停車する。
「着いたわよ」
少女はドアを開けて、ぴょんと外に出た。
キクナはさながら、檻に捕らわれた小動物が外の世界を恐れるかの如く、体を引きつらせ、ドアに背中を押しつけた。その何とも情けない姿に少女は呆れ、ため息をついた。
「さっさと降りてきなさいよ。でないと、むさくるしい男たちに無理やり引きずり出させるしかなくなるわよ」
キクナは混乱する頭で考えた。
男たちに無理やり引きずり出されるよりは、自分から降りた方が何倍もましだ。渋々、シートを滑りリムジンを降りる。モルタルのつるりとした、固い感触が靴の上からでも足裏に伝わった。
キクナはリムジンが入ってきた、入り口を見た。ゆっくりと鉄格子が下りて、光を遮断しはじめる。今から走っても、間に合わない……。
そんなことを思っていると、少女はキクナの心を読んだかのように先回りして釘をさす。
「逃げようなんて考えないことね。ここから逃げ出せたって、外には沢山の部下たちが見張っているのだもの。無駄な抵抗はしないことね」
キクナは少女を見下ろした。
「あなたはジェノ……ここの子だったの?」
「ここの子はここの子だけど、住ませてもらっているだけよ」
「じゃあ……やっぱり、ジョンはマフィアだったのね……」
少女は意味深に含み笑いを浮かべた。
「その話はお茶でも飲みながら、ゆっくりとしましょう。こんな殺風景なところに立ち尽くしてないで、中に入りましょうよ」
そういって手を後ろで組み、少女は歩きはじめた。
キクナはしばらく少女の後ろ姿を見ていたが、知らないこの場所で立ち尽くしていても、良い方に進展しないと思い後を追った。
広大な車庫を進んで、豪奢なとびらの前に立った。センサーでもついているのか、少女が前に立つととびらは自動的に開いた。と思ったら、メイドのような女性が手動で開けたのだった。
キクナは開かれたとびらの先に見入った。ビクトリアンローズ調の濃い赤色のカーペットが地平線まで続くが如く、伸びえていた。
「何ボケっとしているの? 行くわよ」
少女の声で意識を取り戻し、キクナは館の中に足を踏み入れた。メイドのような女性が二人、阿吽の呼吸でとびらを閉めた。
歩いていると、混乱していた頭が落ち着き、ものを考えられるほどには回復していた。どこまでも続く長い廊下を進みながら、キクナは思考の整理をする。
この少女はジェノベーゼ……マフィアのお嬢様だったのだ。いいところのお嬢様だとは思っていたが、想像の斜め上をいっていた。
と言うことは、やはりジョンはマフィアの一員だったということになるのではないだろうか。そう思えば、何から何まで辻褄があった。
自分の仕事を語らなかったことも、自分といれば不幸になるといったことも……。あの瞳に移った影の説明も、何から何までつく。
いつの間にか、物思いにふけってしまいキクナは前が見えなくなっていた。誰かにぶつかったと悟ると同時に、キクナは背後に跳ね返された。あわや、倒れるかと思われたとき、キクナを誰かが抱き留めた。
「僕たちはよくぶつかるものですね」
真正面に見覚えのある男の顔が飛び込んだ。キクナは上げそうになった悲鳴を間一髪で飲み込んで、男から飛びのく。
男は手持ち無沙汰になった手を、頭くらいまで上げて肩をすくめた。
「お久しぶりですね。キクナさん」
キクナはそのキザな男を知っていた。
黄金色の髪をなであげて、ブラウンのスーツを着た、その男と以前にも会っていた。
「僕の館へ、ようこそ」
手のひらを胸の前でかざし、紳士のように男は頭を下げた。
僕の館……その言葉がキクナの脳裏で何度も反芻していた――。