case168 ジェノベーゼの館へ
黒いゴシックドレスを着た女が、手足をばたつかせ暴れていた。黒いスーツを着た屈強な男たちを跳ね除け、その腕から逃れようとしているのだ。その光景を、メイドのような女たちがおかしそうに眺めている。
「このあばずれがッ! おとなしくしやがれッ」
黒服たちは痺れを切らせ、とうとう怒鳴り散らした。黒いゴシックドレスを着た女の腕を後ろからひねり上げ、身動きを封じた。
女は痛みに顔を引きつらせたものの、あらがうことを辞めなかった。
女は踵を蹴り上げ、自分の腕を縛る男の股間を蹴った。
黒服は捻り上げていた女の腕を放し、もだえながら膝をついた。その隙をつき、女は黒服たちをかいくぐり部屋から抜け出した。
ベルサイユ宮殿のような壮大豪奢な廊下をひた走った。
*
話は数日遡る――。
マリリア教会から帰ってきた、キクナは銀髪の少女との約束を果たすため少年たちのアジトへ向かった。
約束通りそこで、少女は待っていた。キクナがいない間、代わりに水やりをしてくれていたようで、花弁から水滴が滴り落ちていた。
「お花に水をあげてくれたの。ありがとう」
キクナは正直にお礼を伝えた。
「べつにお礼を言われるほどのことじゃないけど。あなたを待っている間、退屈だったから水をあげただけ。それに、水をあげようが、あげまいがもうすぐ花は天寿を全うして落ちてしまうわよ」
「素直じゃないわね。この花は次の種になって、来年また咲くのよ」
キクナは膝かがみになって、命尽きる直前の花を愛でた。本当に花の命は短いわね……。キクナはしみじみと実感する。
「ところでわたしが来なかったら、どうするつもりだったのよ? 来るまでずっと待っていたつもり?」
キクナがおかしなことを言ったように、少女は手で口を隠して微笑んだ。
「あなたが、来ることを知っていたから、わたしも来たのよ」
「どうして、わたしが来ると思ったの? もしかしたら、来なかったかもしれないじゃない」
キクナはちょっとムキになって言い返した。
「だって、わたしは人の心が読めるもの?」
「それは、嘘だってあなた言ったじゃない」
「嘘でもあり、本当でもあるの。この世には数学のように、絶対的正解なんてないのよ。嘘の中に誠がまぎれているかもしれないし、誠の中に嘘がまぎれているかもしれないじゃない。だとしたら、それは嘘になるの? 誠になるの?」
上目遣いで少女は試すように、キクナに問うた。
キクナはしばらく、考えてみた。嘘の中にだって、誠を混ぜればそれは、嘘とは言い切れなくなるし……誠の中に嘘を混ぜれば、それは誠と言い切れなくなる……。
なんだこの泥沼にはまり込んでしまう、哲学的な質問は?
キクナは早い段階で諦めて、ため息をついた。
「あなた、本当にませてるわね」
キクナは呆れたように目を細めて、少女にいった。
「褒めてるの?」
「褒めてるのよ」
キクナはニタリと微笑みながら、答え返した。
「それじゃあ、行きましょうか。路地の出口に、車を待たせてるから」
「車で来たの? わざわざ悪いわね……」
キクナは少女の後に続き、路地を進んだ。今では、道案内がなくても道に迷うことはない。この辺り一帯の路地の通路は、すでに頭に入っていた。
路地を抜けてすぐに、黒いリムジンが停車していた。
見るからに高級車という、オーラをかもし出している。
お金持ちだとは思っていたけど、このレムレースという少女はキクナが想像していた以上に。裕福な家庭の子供なのかもしれない。少女の顔を斜め横から、見つめた。
陶器のようにきめの細かな肌は、人形と見まがうほどに透き通り、綺麗だった。
「何?」
少女はキクナの視線に気付き、振り向いた。
慌てて、視線をそらして「いえ、あのリムジンなのかなって思って……」と言い訳じみた言葉が口をついてでていた。
「ええ、その車よ」
黒いリムジンの運転席から、黒いスーツを着た運転手があらわれてドアを開けた。これが噂の専属運転手という人か。キクナは何故か、感動を覚えた。
「先に乗って」
少女は振り返り、車のシートとは思えないソファーのうな席を示していった。
「ありがとう……」
この期に及んでキクナは迷っていた。見ず知らずではないけれど、まだ数回しか顔を合わせていない、言うなればほぼ知らない人の車に乗っていいのか? と。
どうして、こんなことになってしまったのだったか?
そうよ、ジョンに会って気持ちに折り合いをつけるためだ。あんたなんかと別れて清々したと、行ってやるためだ。キクナは目的を思い出し、迷いは晴れた。
「ありがとうございます」
専属運転手に頭を下げて、車に乗り込んだ。
キクナに続いて、少女も車に乗った。クッションはとても柔らかく、腰を下せば包み込むように沈んだ。
足を伸ばせるほどに、広くてまるで部屋が車輪を付けて移動しているかのようだ。下手をすればキクナが住むアパートよりも、車の方が住み心地がいいかもしれない。いや、絶対にいい。
「一時間もしないうちにつくわ。それまで好きに過ごして、寝転んでもいいのよ」
少女がそういうだけあって、リムジンの中は大の大人が寝転んでも十分余裕があるほどに、広々としているのだ。
「ありがとう。だけど、大丈夫。それよりも、本当にジョンに会えるのよね?」
「嘘をついてどうするのよ。わたしがあなたを攫って、レイプでもしようとしているっていうの? もしそうなら、もっと若くて綺麗な女を狙うわよ」
キクナはびくりとした。まだ十歳を少し過ぎた少女の口から、そのような言葉を聞くとは塵ほども思わなかったからだ。恥ずかしげもなく、言い放つ少女とは対照的に、キクナの方が面映ゆい気持ちになった。
驚きと恥ずかしさが通り過ぎると、今度は怒りが湧いてくる。わたしにはそれだけの価値がないというのか。男から見れば、女としての魅力はまだまだ十二分にあるはずだ。まだわたしは二十代だ、と心の中で抗議する。
けれど、年端もいかない少女にそんなことを言ってもしょうがない。キクナは気持ちを落ち着かせて、首を振った。
「いえ、疑っている訳ではないの。本当にジョンに会えるのかなって思って」
少女はウインドウのサッシに肘をついて、窓の外を見ていた。外を見る少女の眼が、窓に反射した自分に向けられたのをキクナは悟った。
「ええ、心配しなくても。近いうちに、必ず会えるわ」
そう言った少女は微笑んでいた。けれど、その微笑みは人を安心させるものではなく、背筋を凍らすほどに冷たいもののようにキクナには思えた――。