case167 消える家族……
アノンは泣き出す直前の不安げな表情で、ふさぎ込んでいた。それも無理はない。不安なのは皆同じだ。いつもは遅くまで眠っているカノンが、ベッドからいなくなっていた。どこを探そうにも、カノンを見ない……。
いったいどこに行ったというのだろうか……。
「今朝から……。カノンを見ないんです……。どこに行ったか知りませんか?」
チャップは神父に問うた。
「カノン君がいないのですか?」
神父は今はじめて知ったとばかりに、驚きを示した。
「はい……。今朝から、いないんです……。いつもは俺の方が先に起きるのに、ベッドにいなくて……」
チャップは深刻に顔を歪めて、訴えた。
けれど、神父はどこかおざなりてきて、真剣に取り合ってくれない。
「そう言えば食事の担当はカノン君でしたね。担当が嫌で、どこかでサボっているのではありませんか?」
神父の言葉にチャップは憤りをおぼえ、声を荒らげた。
「いえッ。確かにカノンはお調子者で容量のいい奴ですけど、任された仕事をサボるような奴じゃありませんッ」
聞き分けのない子供を見るような目で、神父はチャップを見た。
「まだ、お昼です。行方不明になったと決まったわけではないでしょう? もうしばらく待ってみるしか私たちにできることはありません。彼のことです、しばらくすればひょうっこりあらわれるかもしれません」
「そうですが……」
手の届かないものに、手を伸ばすようにチャップはか細くつぶやいた。
「それでは、仕事がありますので、私はこれで失礼します」
神父は部屋に帰っていった。
ニックは神父の背中を見送りながら、思った。神父は何かを隠している、と。証拠や確信があるわけではない。けれど、言葉では表現できない超常的な力が、ニックにそう訴えかけるのだ。
ルベニアに来てから、その超常的な力は強くなる一方だ。
体の奥から湧きあがる、この飢えにも似た感覚……。
このままでは、みんないなくなっていく、と。
カノンが消えた……。これで終わりではない……。
これははじまりだ……このままここにとどまれば、誰かがまたいなくなってしまう……。ニックは家族を失う恐怖に、頭がおかしくなりそうだった。
「みんな……逃げよう……神父はやっぱり何かを隠している。カノンは神父に連れて行かれちゃったんだ……。このままじゃ、みんないなくなってしまう……」
ニックはふさぎ込んでいた皆にいった。
アノンは枕に顔をうずめて、泣いている。
セレナたちは顔に深い影を刻んで、押し黙っていた。
「何言ってんだよ……。こんなときに……カノンを置いて逃げろって言うのかよ?」
チャップは険のある声でいい返した。
「そうじゃないけど……このままじゃ、誰かがまたいなくなるかもしれないだろ……」
ニックを見る皆の眼は冷たかった。
それも当然だ。自分だって、カノンを置いて逃げたいと言いたいわけではない……だけど、このままでは取り返しのつかないことになる予感がする。ニックは今までに経験したことのない、酷な選択を迫られているのだ。
皆から向けられる冷たい視線に、これ以上あらがうことなどできるはずもなく、ニックは押し黙ってしまった。
「部屋でじっとしてても仕方ないから、とりあえずみんなにカノンを見なかったか、訊きに行こう」
チャップはベッドから立ち上がった。
「アノンも泣くな。大丈夫だって。カノンはいなくなったりしない。捜せば絶対に見るかるから、手分けして捜そうぜ」
チャップはベッドに顔をうずめたアノンの頭を、優しく撫で諭した。アノンは涙で汚れた顔を上げて、チャップにいった。
「本当に……本当に……兄ちゃんいなくなったりしないよね……。きっと、ぼくたちをからかうために、どこかに隠れてるんだよね……」
チャップは時間にして、一秒にも満たないわずかな時間言葉を迷った。ほんのわずかな迷いが伝播するように、アノンも顔を歪めた。
「兄ちゃんはいなくなったりしないよね……?」
アノンは虚言でもいいから、希望が持てる言葉を〈いってよ〉というようにもう一度問う。
「ああ、大丈夫だ。きっと、何かがあって、どこかふらついてるんだよ。捜せばすぐに見つかるさ」
チャップは迷いを断ち切り、力づよく言い放った。
子供たちは手分けして、カノンを見なかったか聞き回った。
「なあ、カノンを見なかった?」
ニックは目に付いた人手当たり次第に声をかけた。
「カノンがいないの?」
ニックよりも幼いが、かと言って年少ではない少女は驚いたように訊き返した。
「ああ……今朝から見ないんだ……」
「町に出たってことはないの?」
「わからないんだ……」
「そう……」
少女は自分のことのように顔を歪める。
「ごめんなさい。見てないの」
「ああ……そう……。見つけたら部屋まで知らせに来てくれるとありがたいんだけど」
「いいよ。他の子たちにも聞いてあげる。もし見つけたら、あなた達の部屋まで知らせに行くわ」
約束を交わし、ニックは少女と別れた。それから一時間ニックは捜しまわった。けれど、カノンを見たという子供には一人も出会うことはなかった。
捜していないところはどこだろう……。
ニックはまだ捜していないところがあるかどうか、考える。しばらく悩んだ末、あのときのことを思い出した。町に無断で出た日に、閉じ込められた懲罰房だ。
あそこはまだ捜していない。
二度と行きたくない場所だけど、もしかしたらカノンが何か悪さをして閉じ込められているかもしれない。そう思い、ニックは寮の長い廊下を進んだ先にある懲罰房に向かった。
窓の光が届かず、誰も寄り付こうとしないこの場所は、ジメジメとした陰湿な空気が流れていた。まるで幾多の怨念がひしめき合っているような感じ……。ニックは意を決して、地下へと続く、暗い階段を下った。
まだ昼過ぎだというのに、薄暗くほとんど視界を遮断されてしまう。階段を二十段ほど下り、ニックは懲罰房の鉄扉の前に立った。
とびらは閉まっていない……。
どうやら、ここも外れだったようだ。
ニックは一応、中を覗き込んだ。
中に足を踏み入れた方が早くすむ話だが、ニックは暗黒の中に一人で足を踏み入れるのが怖かった。
もし中に入ってしまい何かの誤りでとびらが閉まってしまうと、自分を助けに来てくれる者は誰もいないのだから……。
「おーい……カノン?」
かすれた声が、闇に吸い込まれ静寂に包まれる。
カノンはいない。ニックは逃げるように、懲罰房をあとにした。
後捜していないところは……一か所しかなかった。
ニックはその足で、聖堂に向かう。本当のことを言えば、ここには来たくなかったのだ……。ここに来れば否が応でも、あの日の夜に見てしまった光景を思い出してしまうから……。
ステンドガラスから差し込む柔らかい光が、聖堂内を照らしていた。明るいけれど、誰もいない聖堂内は耳が痛くなるほど静かだ。
ニックは恐る恐る、聖堂内に足を踏み入れた。木の長椅子が祭壇に向かい合うように、並んでおり、聖堂に必ずと言っていいほどあるキリストの磔刑の彫刻が高々と掲げられていた。
ニックはワインレッドのカーペットを踏みながら、祭壇の横に立つ。祭壇上には分厚い、ハードカバーの聖書が置かれていた。
聖書に手を触れると同時に、ニックに語りかける声が聖堂に響いた――。