case163 刹那の決闘
黒服は苦悶に顔を引きつらせた。左横腹に刺さったナイフの刃を伝い、滴り落ちる赤い血が見える。黒服は苦悶に引きつる表情で、傷口を押さえながらナイフを抜いた。
浅かった。確認するや否や、ジョンは闇に姿を溶け込ませる。
痛みが黒服の怒りを増幅させた。
「おいッ! 逃がすわけねッーだろうがッ!」
左横腹を押さえながら、黒服は発砲した。三発大きな銃声が夜の静かな街に轟いた。男と一定の距離を開けて、ジョンは逃げている。
黒服は怒りで回りが見えていないらしい。今男の思考はジョンを殺すことにだけ注がれていた。
怒り喰らう男から、逃げることは不可能だろう。どこまで逃げようと、黒服はジョンの後を追ってくる。もし今人が通りかかれば、ジョンと間違え誤射しかねない。
追いかけっこは、街の中央広場まで続いた。
ここなら、広く申し分ないだろう。
ジョンは中央広場の、ちょうど中央に立ち止まり黒服と向かい合う。
「もう逃げられないと思って観念したかッ」
ジョンは不敵な笑みを浮かべ、首をかしげた。
ジョンの態度何から何まで気に食わない、黒服は唾を吐きだした。唾が地面に落ちるのを戦闘開始の火ぶたにしたように、男はジョンに向けて発砲する。
ジョンは横に飛びのき、弾丸をかわす。低い体勢で、そのまま走り抜け噴水の塀に隠れた。
「また、逃げるのかよ。逃げてばっかりだな」
男の減らず口にジョンは沈黙をついた。
広場の中央には大きな円形の噴水がある。噴水の水をせき止めるために積み上げられた防壁を利用して、ジョンは男の背後に回り込む。
「臆病者がッ! 隠れてばっかじゃなくて、出てきて正々堂々と戦えよッ」
内心でジョンは男にいう。ナイフと銃が正面から戦っても、勝てるわけないだろう、と。正面から戦うなど愚の骨頂。
汚いと言われようと、使えるものは何でも使っての戦いこそ、本当の戦いだった。綺麗ごとをどれだけ吐こうと、最後は勝った者が正義になるのだから。
拾い上げた小石をジョンは黒服目掛けて投げた。当然外れたが、石畳みに落ちた小石の音に反応して、男は発砲する。銃の発砲音に気配を溶け込ませ、ジョンは男の背後に駆け抜ける。
ネコ科の肉食獣のように気配と足音を極限まで消したつもりだが、革靴と石畳の相性がよいようで、タップダンスの踵を打つような音が小さく響いた。
黒服はその音に気付き、振り返り様撃った。放たれた弾丸はジョンの右頬をかする。かすかな麻痺の感覚と、生温かい血が頬を滴る感触を身に刻みながら、ジョンは黒服の懐にもぐりこんだ。
獲ったッ! 確信したそのとき、黒服が握っていた銃がジョンのすぐ目の前にあった。わずか0コンマ数秒という刹那、持っていたナイフを銃口の前にかざした――。
ほぼ同時に近距離で発砲音が響く。
黒服は目を見開いていた。銃口から放たれた弾丸は、銃口にかざされたナイフの刀身を滑り、軌道を変えた。ジョンの髪をかすりながら、上にそれた。
黒服が何か言葉を発しようとしたとき、ジョンのナイフが首を裂いていた。男が発砲してからわずか、一秒ほどの出来事だった。
スローモーションのように男の首から、大量の血が噴水のように降り注いだ。体中のすべての力が抜けたように、黒服は斜め後ろに態勢を崩した。
男の眼から徐々に光が失われて行くのをジョンは見届ける。
かすかに男の口が動いていることにジョンは悟った。声帯をふるわせるたびに、大量の血が流れ出て血の池を作る。ジョンは男の口に耳を近づけて、最後の言葉をくみ取った。
「ぉま――の――ぉんな――は――ぃまボス――の――手中に――ある、んだぜ――」
途切れ途切れの言葉だった。
けれど、男が最期に言い残した言葉の意味は理解した。
おまえの女は、今ボスの手中にある。おまえの女とは誰のことだろうか。
ふとキクナの顔が浮かんだが、すぐに振り払う。そんな訳がない。ラッキーはキクナのことを知らないはずだ。そのために、自分は彼女と縁を切ったのだから……。
けれど、黒服が言ったおまえの女とは、キクナ以外にいないのではないだろうか……。ジョンはすぐに己の思考を否定した。けれど、一抹の不安は消えなかった。
もし、本当にキクナがラッキーに捕らわれているのだとすれば、それは無言の脅迫なのではないだろうか……。悪い想像ばかりが、先に働き負のスパイラルにはまっていく。
悩んでいてもはじまらない。ひと月以上、キクナの住むアパートの周辺には近寄らないようにしていたが、いつの間にか足が向いていた。
窓は真っ暗だった。それも当然だ。時刻にして午前二時を過ぎた真夜中なのだから、いたとしても眠っているに決まっている。自分が考えすぎなのは、わかっていた。
男の言葉を聴き間違えただけかもしれないし、ただ当てずっぽうに脅しを言っただけかもしれないことは。けれど、どうしてこうも不安になるのだろう……。
彼女には幸せになって欲しいからなのか……。自分にかかわってしまったがために、危険な眼に合わせてしまったからなのか……。
もし、本当にラッキーに捕らわれているのだとすれば、どうすればいい……。どうすれば、助けられる……。
まだ捕えられたと決まったわけではないだろう……。ジョンはネガティブな思考を振り払う。けれど、幼いころ深く刻まれたトラウマのように不安は消えることはなかった。
そのまま、ジョンはキクナの部屋の窓を外から眺めながら、一夜を明かした。やっていることは女々しい男の愚行以外の何物でもない。
明るくなれば、長期間こんな道端にとどまっていることはできない。ジョンは一度引き返すことにした。それから、数度キクナのアパートの前を通り過ぎる風を装って確かめた。
けれど、人の気配は全然ない。
いつもなら、すでに起床している時間なのに、窓にはカーテンがかかったままだ。そのとき、アパートに郵便が来た。
アパートの玄関には入居者たちの、郵便物を入れる棚が設けられている。郵便局員は入居者たちの郵便箱の中に、順番に手紙やら書類やらを入れていく。
郵便局員は何やら入れずらそうに、キクナの郵便箱に手紙を入れた。局員が帰ってから、ジョンは意を決して、キクナの郵便箱に近づいた。
グラスを落としかけたときのような、ヒヤリとした感覚を感じた。郵便箱の中はすでに、いっぱいになり数日家に帰ってきていないことを知らせていた――。