case160 神父の追跡
久々に酒の臭いを嗅いだ。
ドロドロとした空気で、息をするのも苦しかった。
昼間からぐでんぐでんに顔を赤らめ、酔っぱらった男たちが饒舌に話に花を咲かせている。
キクマとウイックは蛇のような鋭い目をしたマスターがいる、〈Serpent〉とという酒場だった。マスターは、めんどくさい奴が来たというような顔でグラスを拭いていた。
「よう、久しぶりだな」
ウイックは店に入るなり、大音声でマスターに語りかけた。はじめから客でないと、わかっているマスターは腫れものに触るように顔をしかめる。
「どうよ、最近の商売は?」
「まあ、ボチボチ……。あなた達が来たら商売あがったりですけどね」
皮肉りにマスターは答えた。
「お、言うようになったな。心配しなくても、ちょっと話を聞いたらすぐに帰るって」
そういって、ウイックはカウンターテーブルに重い腰を下した。キクマもポケットに手を入れた格好で、ウイックの後ろに立った。
「で、何の御用でしょうか?」
マスターも慣れたもので、意に介さぬようにグラスの曇りをとる手を動かす。
「ああ、最近この辺りで、腕に怪我を負った身長七十五くらいの細身の男を見なかったか?」
「腕に怪我を負った身長七十五ほどの男なんて、商売が商売ですからね。毎日のように見ますよ。昨日だって、店に来ましたね」
「いったい、どんな客を相手にしてんだよ」
「どんな客でも、客は客です。お客を拒まないのがうちの店のポリシーですよ」
怖気づいた風もなくマスターは淡々といった。
「まあな。客を拒んじゃいけねえよな」
ウイックはしばらく店内を見渡した。ウイックたちの会話に聞き耳をたてるでもなく、客たちは面白おかしく、くだらない話を語り合っている。
「あんちゃんは、この前あった銃撃戦のことを知っているか?」
「ああ、ジェノベーゼのパーティーで起きたドンパチのことですよね。それなりには、客から話を聞いていますよ」
「ああ、俺もそれなりには知ってんだよ」
するとマスターは〈じゃあなんで、うちの店に来てんだ〉というように棘をふくんだ表情を一瞬だけ作った。
「そんで、ボスを殺そうとしていた奴はジョン・ドゥだと思うんだよ」
「それが、どうしたんですか?」
「マスターはその犯人がジョン・ドゥだと思うか?」
「そんなの知るわけないでしょ」
ウイックは唇を尖らせ、避難の眼をマスターに向ける。
「そんな冷たくいうこたぁあねえだろ」
けれどすぐにウイックの機嫌は直り、椅子から立ち上がった。
「邪魔して悪かったな。まあ、商売頑張ってくれや」
いったい、何をしに来たのだろうか? キクマにはただ商売の邪魔をしに来たようにしか見えなかった。
店から出ようとしたそのとき、マスターは思いだしたようにウイックを呼び止めた。
「何だよ?」
「いえね。今朝がた死体があがったっていう話を聞きましてね。何でもその死体がジェノベーゼの部下のものだったとか」
「それがどうしたんだよ。ただの抗争じゃねえのか?」
「いえ、抗争なら銃やなんやで殺されるとおもうんですが、その死体はナイフで首の頸動脈を切られていたって言うんですよ。その殺し方って、新聞なんかで騒がれてるジャック・ザ・リッパーの再来の代名詞じゃないですかね」
ウイックとキクマはお互いに顔を見合わせた。
「本当か?」
ウイックのさっきまでの陽気な顔色が変り、マスターは緊張に顔をこわばらせた。
「ええ、今朝聞いた話ですから、まだ現場検証でもしてるんじゃないですか?」
「現場はどこだ?」
「この街の中央。広場の周辺だと聞きましたが」
「ありがとよ。いっちょ、見てくるわ」
そういってウイックは両開きのとびらを開けた――。
*
ルベニア教会を張り込むのは想像以上に、困難だった。身を隠す場所がないのだ、以前は森を隠れ蓑に使っていたが、あの獣がいる限り不可能だ。
ルベニア教会は小高い丘の上に築かれており、見晴らしがいい。周辺で怪しい動きをしている者がいれば、すぐに気付かれてしまう。
あまりに見晴らしがいいことがかえって、ルベニア教会を鉄壁の要塞にしていた。
「これでは、長い間見張るのは困難ですね……」
プヴィールは車の運転席に座って、スナイパーライフルのスコープを使い教会を見た。倍率50倍にできるスコープを使えば、優に教会を見張ることができたが、問題はこんな田舎に見知らぬ車が長期間止まっていることだ。
ほとんど、草原や田園風景が続く田舎はフラットでどれだけ離れていようと、かなり目立った。なので、三十分おきほどすれば、場所を移動しなくてはならない。
あと、数分間何も変化がなければ移動しようと思っていたとき、プヴィールが何か異変に気付いたのかスコープをまじまじと覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
サエモンは助手席のグローブボックスから、プヴィールと同じスコープを取り出した。
スコープを覗き込み、教会を見ると手振れが酷くて見れたものではなかった。プヴィールはハンドルにスコープを固定していた。
何もいわないプヴィールに痺れを切らせ、サエモンは苛立たし気にいった。
「どうしたのですかッ」
プヴィールは不意を突かれた動物のようにビクっと肩を震わせた。集中していれば周りが見えなくなるようだ。
「はい……え?」
「何を真剣に見ていたんですか?」
「ああ……」
プヴィールは慌てて、説明をはじめた。
「離れ過ぎていてハッキリとはわかりませんが。誰かが出てきました」
「子供ですか?」
子供は歩いて三十分ほどの町まで週に二回ほど、買い物に出かけることはわかっている。その子供たちを見ている限り、洗脳されているような様子はない。
それがますますサエモンたちを困惑させた。
聞いていた話とまったく違うのだ。
実験を受けた子供は感情を失うと、しかしサエモンたちが目撃した子供たちはキラキラとした眼を持った子供らしい子供だった。
「いえ、大人のようです」
「男ですか?」
プヴィールはしばらく黙りスコープに目を凝らした。
「男のようです」
ルベニア教会の男と言えばタダイ神父の他にはいない。
「どこかに出かけるようです。教会のとなりに止めている黒いビートルに乗りました」
「追いましょう」
「はい」
プヴィールはスコープから眼を離し、すぐさまエンジンをかけた。なだらかな丘を下り、タダイ神父らしき男が乗った車は田舎道に出た。
「早く追ってください」
「はい」
神父の乗ったビートルはサエモンたちがいる反対側の道に出た。
遮蔽物がない田舎道は距離を開いても見失う心配がないぶん、追跡者がいることを悟られやすい。
それからしばらく、距離を保ちながらサエモンたちはビートルをつけた。タダイ神父の車は街に帰ってきた。
「いったい、何の用があるのでしょうか?」
右折左折の多い、入り組んだ街では逆に離れ過ぎれば見失う危険がある。相手に気取られないよう最善の注意を払い、プヴィールは神父のビートルを追った。
街の中を十五分ほど進んだとき、タダイ神父が乗ったビートルは思いがけない館の前で止まった。
「ここは……」
プヴィールはハンドルに身を預け、前かがみに館を覗き込んだ。
「ええ……そのようですね……」
タダイ神父は黒いフォルクスワーゲン・ビートルから降りて、ジェノベーゼの館に入っていった――。