case158 マリリア教会の聖なる人々
まだひと月ほどしか経過していないというのに、胸が締め付けられるような懐かしさを覚えた。キクナは子供たちの美しい歌声を聴きながら、とびらを閉める。
子供たちは誰かが聖堂に入ってきたことに気が付くと、歌を中断して闖入者を目視した。
「邪魔をしてごめんなさい……」
キクナは慌てて、聖堂から出ようとすると、少年の声が止めた。
「待ってください。確か、あなたはあのときのお姉さんじゃないですか?」
キクナはその声に聞き覚えがあった。
キクナが捜していた、男の子の声に酷似していたのだ。
「やっぱり、そうですね。来ていたのですか」
キクナは半開きになったとびらを再び閉じ、少年に視線を向けた。
「そうなの。昨日から来ていて、今日のお昼に帰る予定」
「そうでしたか。よく眠れましたか?」
「ええ、もうぐっすり」
しばらく他愛無い話をしてから、キクナは改めて頭を下げた。
「あのときは本当にありがとう。改めてお礼を言いたくて、きみのことを捜していたんだよ」
少年は猫のように目を細めて、男の子とは思えない、愛らしい微笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
この感謝の気持ちを、お礼だけで済ませるのは本意ではないけれど、プレゼントやお土産を持っていないキクナは諦めるしかなかった。
「よかったら練習を見て行ってください」
「いいの? そうさせてもらおうかしら」
キクナは胡桃のような、濃い茶色の長椅子に腰を下した。子供たちが歌い終わるまでのニ十分間ほどを、聖堂で過ごした。
聖歌が終わり、キクナはまたお礼をいった。お礼を何度も言うことはキクナは好まないのだが、この気持ちを相手に伝えずにはいられない。
少年も見つけてお礼を言ったし、キクナの思い残すことはもうない。あとの時間はチトたちと過ごそうと決めていた。
キクナは知らされたチトとローリーの部屋に、向かうことにする。本当は四人部屋のはずだったが、シスターたちが気を利かせ、慣れるまで二人だけで使わしてもらえることになった部屋だ。
女子寮の長いT字廊下を右に曲がってすぐある部屋がチトたちの部屋だった。キクナはノックして、返事を待つ。しかし、返事がない。
どこかに出かけているのだろうか? 踵を返しかけたとき、角から柔らかそうな金色の髪を三つ編みにした女の子があらわれた。危うくぶつかりそうになったのを、すんでのところでかわす。
「ごめんなさい……」
三つ編みの女の子は反射的に謝った。
「リリー。こちらこそごめんなさい……」
三つ編みの女の子はリリーだった。
ユアたちといつも一緒にいる女の子だ。
「あ、キクナさんでしたか。こんなところで、どうかされましたか?」
自分が謝った人物がキクナだと気が付くと、リリーは安心したように肩をなで下した。
「チトとローリーに会おうと思って、来たんだけどいないみたいで」
「チトちゃんとローリーちゃんなら、私たちと一緒にいますよ。二人に見せたい本があって、取に戻ってきたんです」
「そうなの。あの子たちと仲良くしてくれて、ありがとう。あの子たち人見知りだけど、不思議とあなた達には気を許せるみたい。やっぱり、同い年の子供どうしだと、通じるものがあるのよね。これからも、仲良くしてあげてね」
キクナは自分で言って、納得したようにうなずいた。
やはり、子供は子供どうしで遊ぶのが、一番なのだろう、と。
「すでに仲良しですよ」
リリーは口元に手のひらを軽く添えて、いった。
「それじゃあ、ちょっとここで待っていてください。本を取ってきたら、チトちゃんのところに案内しますから」
「ありがとう」
リリーは足早に廊下を進み、チトたちの部屋のすぐ隣に入った。一分もしない内に、本を大事そうに両手で抱えて現れた。
彼女に案内されて、キクナは庭へ向かう。
ブランコが吊るされた樹の下に、少女たちは座っていた。今思えばこの子たちに出会うのは、いつも庭だな。
チトとローリーがキクナに気付いた。キクナは手を振りながら、みんなの元に向かう。ローリーは手を振り返してくれるが、チトは仏頂面でキクナを目で追っているだけだ。
「どうだった、昨日は眠れた?」
キクナは二人に問うた。ローリーは屈託のない笑顔で、眠れたと言ったが、素直じゃないチトはまあまあ、と恥ずかしそうに答えた。
「そう、それはよかった」
キクナは微笑み、ブランコに腰を下す。
「リリー何を持ってきたの?」
ローリーは小首をかしげて、物珍しそうにリリーの抱えている本を指さす。
「童話。(Alice's Adventures in Wonderland)不思議の国のアリスっていうの。不思議な物語なの」
ローリーは感心したように、「へ~」とつぶやいた。
「だけど、ローリー字読めないよ」
「大丈夫、私が読み聞かせてあげるから。字は今からゆっくりと勉強すれば読めるようになるわ」
すると、ローリーは頬を桜色に染めて、はしゃいだ。
「本当に。本当にローリーも字が読めるようになるの?」
リリーはやさしく微笑んで、迷うことなく言い切った。
「ええ、読めるようになるよ。色々な本が読めるようになる」
キクナはその光景は微笑ましい気持ちで、見守った。
そう言えば、不思議の国のアリスのはじまりも、このような草原だった。
土手だったかで、お姉さんに本を読んでもらっているところからはじまるのではなかっただろうか?
キクナは昔読んだ、アリスの物語を思い出そうとしたが、ストーリーを殆どと言うより、ほぼ憶えていないことに失望した。
木陰の中、樹に背中をあずけリリーはみんなに物語の読み聞かせをはじめた。ローリーはリリーのとなりに座り、活字だらけの本を絵本のように見つめた。
おねえさんと本を読んでいたアリスは、たいくつしてねむくなっていました。すると、おどろいたことにチョッキを着た白ウサギが
「たいへんだ、ちこくする!」
とさけびながら走っていくのを見つけたのです。
アリスはすぐさまウサギのあとを追いかけました。
ウサギが飛びこんだ穴に、つづいてアリスも飛びこみます。
穴はとても深くてまっすぐで、まわりには古い本だなや戸だながびっしり。そんな中、アリスは地学のおさらいをしたり、猫のダイナのことを考えながら、どこまでも落ちていきます。
穴のそこでさらにウサギのあとを追いかけて、広間にたどり着いたアリス。そこにはカギのかかったドアがずらっとならんでいます。
アリスは小さなテーブルの上にカギを見つけて、一番小さなドアを開けてみました。
ドアの向こうにはあざやかな花がさきみだれる、美しいお庭が見えました。
アリスはお庭に出たくてたまらないのですが、ドアが小さくて通ることができません。
「わたしを飲んで」
と札がついた小びんを見つけ、それを飲みほすとアリスの体はぐんぐん小さくなりました。
「これでお庭にでられるわ!」
ところがドアのカギをテーブルの上に置いたままだったのです。小さくなったアリスにはもう手がとどきません。アリスは泣き出しました。
リリーはお母さんが子供に絵本を読み聞かせるように、ゆっくりと優しく、語り聞かせる。そよ風が髪をなで、枝を揺らす中、少女たちは静かな午前を過ごした。
物語が後半に差し掛かり、盛り上がっているさなかリリーは本を閉じた。ローリーは物悲しいに、問うた。
「どうしてやめるの?」
リリーは答えた。
「もうお昼だから、昼食を食べてから聞かせてあげる。一度に読んでしまうと、面白くないでしょ」
渋々、ローリーは了承した。
昼食が終わり、バスの時間が近づいた。
「チト、ローリー」
キクナは珍しく改まった、声をだして二人を呼んだ。
いつもと違う様子を悟った、二人は怪訝に顔をしかめて「なに?」と訊き返す。
「それじゃあ、お別れ」
二人の肩に手を置いて、しゃがみ目線を重ねた。
「ああ、元気でな」
チトは素っ気なく言ったが、キクナにはわかった。
これがチトなりの、最上級の別れの挨拶なのだと。
「キクナ、今までありがとう……」
ローリーは泣き出す直前のように、顔を歪めたが最後まで泣かなかった。泣けば、キクナが悲しむと思ったのだろう。
「お礼なら、ベタニアたちに言って。わたしは、何もしていないもの……。わがままを言って、ベタニアたちを困らせてしまったのだから……」
今考えても、自分勝手に行動して、ベタニアたちには迷惑をかけっぱなしだったことを痛烈に感じた。
「手紙を書くから、あなた達も字を勉強して、手紙を返してね」
ローリーはブンブンとうなずいて、何度も、何度もいった。
「うん、手紙を書くよ。勉強して手紙書く。キクナ、元気でね」
「ええ、また会いに来るから」
「また、会いに来てね」
ローリーは涙をこらえきれず、宝石のような一筋を流した。
「ベタニア、ヨハンナ、スザンナ。本当にありがとうございます。わがままばかり言ってしまって、本当にごめんなさい」
「いいのですよ。キクナ様のおかげで、二人は救われたのです」
ヨハンナはそういって、チトとローリーの肩を抱き寄せた。
「それでは、そろそろ、行きます」
「はい。お元気で」
沢山の人に見送られる中、キクナはなだらかな丘を下りはじめた。
「必ず、手紙を書きますからー!」
キクナは最後まで手を振りながら、別れを惜しんだ。
マリリア教会の子供たちも、シスターたちも、みんなキクナが見えなくなるまで、見送った――。